豆腐の味 第三話(最終話)

 

写真 (3)

駅から十分ほどの丸いポストのある街角に、三代続けてきた豆腐屋があります。

伸介君が守る“金森豆腐店”。

「遠路、本当によく来てくれたね。」

由起子もきっと喜んでいるはずだと、伸介君は深々と頭を下げました。

わずかな供物と白いグラジオラスの上がった後飾り壇に向き合い、

遺影と白木の位牌に、わたしは線香を手向けます。

「伸介君、大変だったでしょ。」

長年の介護の苦労を察するには余りある。

わたしはそう労いました。

「辛かったのは由起子だから。」

看病の弱音を一切吐くまいと、彼は自らを律してきたというのです。

「ところで智恵子さん、どうかうちのおぼろ豆腐を食べていってくれないか?」

ユッコが一番に好んだこの味をわたしにもてなすことが、

何よりも妻の供養になるのですって。

店先から通じる表座敷にも、豆と豆乳の匂い、

菜種油とゴマ油で揚げた油揚げの匂いが漂っています。

東京の暮らしですっかり馴染みのなくなった素朴な生活香は、

向こうにいるユッコが「そうしていってほしい。」と誘っているサインのようです。

「春に花を見にいってね、おぼろ豆腐をさじで掬って口に入れてやったら、すごく喜んでね。久しぶりに由起子の笑顔を見たなあって。」

わたしは表情を崩しませんでした。

伸介君とユッコの深い愛の絆が、ふれてはいけないサンクチュアリだと直に知らされたからです。

「あ、ごめん。智恵子さんには耳心地のいい話じゃないよね。」

伸介君はわたしの殊勝顔を仏頂面と取り違えてしまったらしい。

わたしは急いで、今さら嫉妬する気持ちはないと首を横に振りました。

「ユッコは伸介君と一緒になれて幸せだったのね。」

「ぼくも幸せだったよ。ぼくも・・・。」

「わたしはあの頃、たしかにユッコを愛していました。」

当時、同性だった自分たちのさだめをどれだけ恨んだことだったか。

「それは、ユッコも同じ気持ちだった。」

でもユッコはあなたを選び、わたしと別れた。

どんなに愛し合っていても、幸せにはなれないんだよ。

ユッコにそう告げられたことを、今でも忘れてはいません。

「悲しかった。」 それに悔しかった。

伸介君、あなたが男だったというだけで、 わたしのユッコを奪ったことを、どんなに恨んだことでしょう。

「でも、もう遠い昔の話だしね。」

その時わたしの浮かべた笑顔は、きっと脱力して緩んだものだったに違いありません。

心のどこかに長い間ひっかかっていたものがやっと外れてくれたのですから。

「・・・。」

伸介君は目頭に光るものを貯め、黙って聞いていました。

彼は、決して謝ることはしません。

わたしを見つめるまっすぐな視線は、「選んだ生き方に悔いはなし」という確かな信念を物語っていました。

「ねえ智恵子さん。えっと・・・チャコちゃんって呼んでいいかな。」

伸介君はさっと立ちあがりました。

「別にいいけど・・・。」

「待ってて、今よそってくるから。」

彼はちょっと照れくさそうに、そそくさと店に降りていく。

そして湯気立つ大鍋から おぼろ豆腐をお椀に汲んでいます。

ユッコはあの背中を愛したのか・・・。

わたしは今から口にする味を生涯忘れないでいようと心に誓いました。

故郷、物井の味として。かけがえのない青春の香として。

「さあチャコちゃん、どうぞ出来立てですから。」

ふうふうと吹きながらいただきます。

豆腐も豆スープも渾然一体となりのどを通っていく。

食べるのではなく、あっという間に飲み干してしまうというこの感覚。

「美味しい。」

 わたしは素直な破顔一笑を隠しませんでした。

そしてこの時、手を叩いて嬉しがるユッコの幻影をすぐ近くに見たような気がします。

(完)

by ケイ_大人

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。