
浮惑なカモメ 第十四話
第六章(1)
暮れに野毛の丘の上の1LDKを解約して、
寿町の簡易宿泊所に移った。
それから、年が明け間もなくして、サミーが死んだ。
突然だった。
なんだかんだはあるが、いいおやじだった。
正月早々にカルナバルで、愛飲のハバナの葉巻を分けてくれた。
最近娘の喘息がひどいって零していた。
来月には新しいギターが手に入ると弾ませていた。
ぼくが、
「女の子の歌なんだけど、ジェシカローズってゆう、もう解散しちゃったバンドがあってね、彼女らの曲を弾いて歌ってみたい」
って、話したら、
「いいよ。にいさんにギター、教えてやるよ」
って、柔和な眼差しで応えてくれていた。
離れて暮らすマリさんの心配をしていた。
マリさんは前の奥さんらしい。
カルナバルで偶然出会うと、いつも音楽のことを嬉しそうに話してくれた。
ビートルズが武道館で歌った日、自分が前座の歌い手の付き人をしていたって話は、
もう何度も聞いた。
本牧の接収地で演奏していた若い頃の話も耳にタコだ。
船乗りだったから港を愛していた。
海猫がどうした、とか、ぼそぼそ垂らしていたけど、
適当に笑ってぼくは聞いていなかった。
最近の横浜は、別の土地の奴らが牛耳ってやがる、って舌を打つ。
ピンと来なかったけど、この街の若いのは元気がないんだと、
ただ嘆きたかったんだと思う。
酒は相変わらずビールと決まっていた。
酔ったサミーをあまり見たことはなかった。
だのに最後に会った日、珍しくサミーは潰れていた。
バーテンの『彼』に尋ねたら、知りません……と、首を振った。
カウンターに突っ伏したサミーが、とろんとした目を向けてぼくに語りかける。
「もう曲は出来ているんだ」
誰に聞かせたいのか、って聞いたら、
「娘と孫のサリ、それからマリに。 新しいギターで弾いて聞かせたい」
と、薄く笑った。呂律は回っていなかった。
サミーは死んだ。
明け方の中華街で、警官が路上で眠っているサミーを揺すり起こそうとする。
その時、もう冷たくなっていたのだと、カルナバルの『彼』が教えてくれた。
離れてくらすマリさんって人も、喘息持ちの娘も、 サリという名の孫も、
新しいギターや、もう出来ていたという曲も、
サミーが口にした全ての愛おしい存在たちは、本当にこの街に存在していたんだろうか?
今となっては果たして分からない。
サミーがくれたのと同じ銘柄を元町のシガーショップで手にいれた。
火をつけた。
この土の風味は、サミーの匂い。
なあ、俺にはこれしかないけれど、 これで後を頼まれちゃあくれないか、と、
サミーに肩を叩かれたような気がした。
それからぼくは伊勢佐木モールの古道具屋で弦が一本切れたギターを手に入れて、
直しに出して、ジェシカローズの譜面も買った。
常連客にギターが弾けるとゆう僧侶がいるので、彼にちょこちょこ指南を受けて、
あとは独学と決める。
ジェシカの曲がまともに一つでも弾けるようになったら、
それはそれでサミーへの供養にもなるかと、意味のないことを考えていた。
「わけは何でもいいじゃねえか」
昨日夢の中で、でき立てほやほやの楽譜をサミーに渡される夢を見た。
「にいさんよ、新しいナンカを始める元気が出たんだろう? な、あんた今、 “ファ ”じゃないぜ。 “カ ”だな」
ケケケケ、サミーはイカレポンチな笑いをした。
ぼくは何も答えなかった。何も答えないで、黙ったままその譜面を受け取った。
その時だ。
全身がぞわっとする。
譜を差し出してきたその手は、大きいけど重さのない、あの……、あの懐かしい手だった。
ぼくは途端に涙が溢れて来る。
そしてサミーを見ようとした。
何としてでも彼に邂逅しようとした。
だのに、なぜだか、なぜなんだか、どうしても顎を上げることさえできない。
「行かないで……、行かないで」
ぼくは歯をギシギシやって藻掻きながら、必死にそう絞り出していた。
(つづく)
by ケイ_大人
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