浮惑なカモメ 第七話

第三章(1)

rakkasei1

あの夢が、いま形を変えてうつつのものになっているのか。

「ワタシ、マダ 中国ニ帰レナイ……帰リタクナイ」

雨に濡れる花街のネオン。

キラは車窓越しに見つめながら、ぽつりそう呟いた。

 ぼくはキラの震える手を握る。

冷たい……。

 ぼくは、その手にあるだけの温度を送った。

 ジェベッタ・スティールの『コーリング・ユー』がカーステレオから流れだす。

 ぼくはメロディラインにかすれた口笛を合わせた。

「お好きですか?」

と、タクシードライバー。

「あの映画、好きで」

「ああ、何ていいましたかね、えっと……」

「『バグダット・カフェ』」

「そう、そうだ」

 タクシードライバーは、まだ独身の頃、渋谷の映画館で恋人と鑑賞した思い出を振り返る。

話の筋がよく分からなくて、途中で居眠りをしてしまった、と笑った。

「でもこの曲は印象に残ってましてね。いい曲だ、渇いていて」

 車窓に幾重もの雨の滴が垂れている。

 

   汪さんはすっかりぼくの食い扶持になっていた。

汪さんの経営する福富町の中国人女性クラブで飲ませてもらうこともしばしばだった。

それでセックスをしなくてすむこともあった。

「九時頃店で待つように」

と、その日も鉄ママからの指示を受け、ぼくは独りでもてあましていた。

傍らにはもうすっかりこの店で馴染みになった、久美という女が座っているが。

「アユムクンワ、パパノ恋人?」

 この店で女たちは汪さんのことをパパと呼ぶ。

「そんなんじゃないさ」

 ぼくはJINROを煽る。

「パパガ来ル、イツモ出カケルデショ? パパモ嬉シソウダヨ」

 ふうん。ぼくは答えなかった。

「ネエ、パパ、アナタガ好キ?」

 久美はニヤニヤと小声で尋ねてくる。

「さあ」

 ぼくは、つまみの渇き物に手を伸ばす。

「ジャ、アナタワ?」

「さあ」

 関心などないけれど、正直を喋ったらどう漏れるか怖かったので

小首を傾げて曖昧な態度をみせた。

「失礼シマス」

 その時、新顔の女が正面の丸椅子に着く。

「ハジメマシテ、キラデス」


 キラ……。


「どうも」

 ぼくは愛想のない会釈をした。

 久美に指名客が入り暫時席を外すというので、

キラが横に座を移して酒を作り直した。

「アユムサンワ、パパノオ客様デショ? 久美ニ聞キマシタ」

「……」

「今日、パパ遅イデスネ」

 たしかに。いつもは約束の時間にちょうど来るか、
早々と構えていることさえあるというのに。

もう時刻は九時半を回っている。

小鉄ママにそろそろ問合せをするべきか……。

「キラワ、マダ日本語下手ダカラ、教エテクダサイ」

 キラはにこりと笑って、ペコリと頭を下げた。

化粧気がなく、指先は子供のように丸い。

髪も無造作で、すれた印象はない。

「いつこっちに来たの?」

 ぼくは尋ねた。

「三月ニ来マシタ」

 暫く福岡にいて、最近横浜に移ったのだとゆう。

「ワタシノオ父サン、病気ダカラ、ワタシガ頑張ルノコト、仕方ガナイデス」

 ふと、炎天下の落花生畑でバタリと倒れる農夫のイメージがよぎる。

「日本ハ良イトコデス。ミナ優シイシ。キレイ」

 ぼくは、じっと耳を傾け見つめていた。

刹那、キラの狭いおでこに憂鬱の影が覗く……、気がした。

「ソンナニ見ナイデクダサイ、恥ズカシイ」

と、キラはあどけなく照れ笑って、小顔を手で隠す。

 携帯が自律神経を失ったように震えたのはその時だった。

鉄ママだ。

「はい、あゆむです」

写真 4

つづく

 

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。