浮惑なカモメ 第六話

第ニ章(3)

写真 1

チャイナタウン、香港路の精華飯店。

中二階の角にぽつんと丸テーブルが設けられている。

路地のネオンが映る窓際に落ち着いて、

玲子とぼくは小籠包を摘まんでいた。

「この路地のルービーレッド色が好きよ」

玲子がぽつりと呟く。

「ぼくは微かに聞こえる音も好きだ。羽虫が電灯に当たって痺れているようなやつ」

ああ、そうね同感、と、玲子は微笑した。

「ところで玲子はジェシカローズの解散ライブに行ったの?」

「ええ、天井桟敷で見たわ。あゆむは?」

「行ったよ。一階のスタンディング。」

「泣いた?」

一輪挿しのマーガレットが首を僅かに垂れて聞いている。

「泣いたよ。きみは?」

「泣かない」


メロディラインを先導するKATUYAの激しくも繊細なギター。

パフォーマンスを下支えするTAKAOのドラムビート。

そしてYURIの躍動と歌声。彼女はロリータフェイスで人気だが、力強く、

むしろ野太いとさえも評されるボイスで、

芯のある、独自のポップロックスタイルをクリエイトしてきたのだ。

アクションの一秒一秒がフラッシュバックのように流れていく。

ぼくの意識は、虚実と現実の境界をふらふらと漂っている感覚だ。


「つかんだものをすべて手放すより 壊してしまったほうがいいでしょ? 
最高のジュエルが指先から零れたら
砂漠の砂でイヤリングをプレゼントして」


 このリリックが好きだ。

 胸が熱くなった。

 上下左右、激しく身体を預ける群衆に押し潰されそうになりながら、

ぼくは直立して、静かな涙が溢れ出ることを止められなくなっていた。

「どうして泣くことができたの?」

「切ないからさ。ジェシカの生演奏はもう聞くことができないだろ?」

 ふーんと、玲子は物思いに沈んだ顔をする。

「ねえ、切ないって、知ってる? 言葉の由来を」

知らない。

「心が切れるほどの思い」という意味だと、玲子は淡々と続けた。

「彼女たちは過去にしがみつくことを拒んだ。産みだしてきた多くのヒット曲。

それらを演奏し続けなくてはならない束縛からの解放。

メンバーそれぞれが、バンド、つまり『集団』としてのヒストリーと、

『個』のビジョンを、未来に向けて繋ぐイメージを持つことができたんだわ」

だから、そこには断絶なんてものはないでしょ?

「未来に向いている人たちを見て、わたしは切ないとは感じない。
切ないと感じさせて、永遠にオーディンエスの余情を煽ろうというなら茶番ね」

「……」

ぼくは、小籠包の皮を箸で引き裂いた。淀んだ色の肉汁が小皿の中で広がった。

 そう言えば、今夜がぼくたちの最後の晩餐……、

「だっけ?」

「『最後』を強調する必要はないわ」

と、玲子は丸テーブルの縁に頬杖をついた。

 二番のサビの歌詞はこうだ。


「愛したものをすべて手放すより、恋してしまったほうがいいでしょ?
最後のファイルをしまう星のブックシェルフ、
たぶんあなたがまるごとくれたプレゼント ナノ」


 後奏が止む。

「ギター、KATUYA! ドラム、TAKAO!」

 YURIがバンドメンバー一人ひとりを紹介する。

 そして最後に自分の名前を告げると、深々と頭を下げてそのまま膝から崩れ落ちた。

 YURIは嗚咽している。熱の溜まったステージを、漸次冷ましてく激涙。

 ジェシカローズというバンドは、この時永久に呼吸を止めた。


 精華飯店を後にして、北大路に出る。そこでぼくと玲子はタクシーを止めた。

「じゃあ、出してください」

と、運転手に告げると、車は静かに走り出す。

 大路の路傍もまた、赤橙だの、萌黄色だのに染まっている。

ネオンサインから離れて浮遊しているような、色だけの亡霊たち。

「ところでお客様、どちらまで?」

運転手は尋ねた。

「さてどこへ行こう?」

玲子はずっと黙っている。

「ああ、そうか……。」

二人で帰る場所はもう無いのだっけ。

「……」

 玲子はやっぱり黙っている。

 突然、

「わー!! お客様、あれ、あれを見て!」

 運転手が指を差した。

「あー!」

 するとなんだ。夜空の真ん中に、

そこだけ宇宙の端っこと繋がっているかのように茫漠とした光の穴がぽっかりと開いているのだ。

さらにその中心には、北斗七星が燦然と輝いている。 

「あれはいったい……」

 驚きと気味の悪さのあまり血の気が失せていく。

「ねえ……」

気だるそうに車窓にもたれたまま、玲子がつんとぼくの袖を引いた。

なに?

「昔から星座に興味はないの。あなたに捨てられたわたしは、もう死にたいわ」



つづく

 

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。