浮惑なカモメ 第十三話

第五章(3)

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「夕飯の支度してるの」

恵美は、ほんとうに何事もなかったかのようにキッチンに立って仕事を始めていた。

「あゆむ、お腹すいたでしょ?」

ぼくは、まだ声が出なかった。

「今日はお鍋にしようと思ってね。鱈を買ってきたの。いいでしょ?」

「あのっ……」

「ん?」

「ほんとうに……恵美?」

ぼくは訝しげに尋ねる。




それは、横浜に初雪が降った十一月のある夜だった。

三人目にガチムチ女装子の客を迎えて終え、

くたくたに疲れてやっとこさ部屋に戻ったぼく。

そこに……恵美がいた。

恵美が戻ってきた。

いや、戻ってきたというよりも、離婚直後にこの部屋を契約して、

その頃に渡してあったアドレスを頼りにこの場所まで手繰り寄り、

そしてキーをカギ穴に入れて回して、勝手に上がり込み、

灯りを煌々と灯して鼻歌でも歌っている、とゆうべきか。

ぼくはあんまりびっくりして、ひとまずへなへなとしゃがみ込んでしまった。




「うん……うち、恵美だけど」

恵美は、ぼくが目を丸くしているのはなぜですか?

と逆に問い返す。

「だってさ、いきなり連絡がつかなくなって、あれから半年も過ぎて……」

とかなんとか、とにかくごにょにょと零しまくった。

「あのさ、あゆむ。これ作ったら、また行かなくちゃいけないの、うち」

「えっ?」

ごめんね、と、か細い声で恵美は呟いた。

慌ただしく手を動かす彼女の背中は、とたんに憂鬱な影を帯びた。

「どこへ? 仕事か?」

ぼくは恐る恐る聞く。

 そうじゃない、もうあんな仕事は辞めたんだ、と、あっけらかんにゆう。

「……じゃあ、どこ? 」

「分からないよ」

「分からないじゃ、分からないだろう。いきなり戻って来て、またどこかに行くって、
なんだよそれ!」

ぼくは堰を切ったように声を荒げた。

「あゆむ、淋しかったの?」

たんに淋しいなんて表現で説明などできない。

突然恋人が姿を消す。そして、その理由について皆目見当がつかなかったら、

当たり前に狂い死にそうになるさ。

男娼に落ちたことは抑えたとて、ぼくは質問に応えるつもりで、

いかに気持ちがすさんでしまったかをボロボロとこぼし続けた。

吐き出てくる言葉は、まるで子供の食べこぼす焼き菓子の欠片のようだ。

シンクに向かって鍋の用意をしていて背中を向けたままの恵美がチラッとこっちを見る。

「あゆむ、なんかちょっとやつれた?」

と。

そして、再び無言で背中をむけたままになった。

心配させて悪かったが、こういう女だから放っておいてくれていい、

虚しい空砲を鳴らし続けるぼくを遮り、しまいにはそうまとめようとした。

ぼくは恵美の立ち姿をずっとぼんやり見つめながら、

次にどんな言葉をぶつけたらよいのやら途方に暮れる。

さっきから震えだって止まないんだ。怒りからのじゃない。

今そこに立つ『恵美の実在そのもの』を疑う気持ちと、

間もなく再びの別れが必然に訪れることへの悲嘆が、交互に脳味噌を掻きまわしていく。

回復が見込めない船酔いに襲われた気分。

難破して大洋をさ迷う小船に揺られているようだ。

それでもぼくは、自分がどうしたら多少なりとも救われるのかを何とか思い付こうとしていた。

恵美への恋慕を投げ出すことができるなら、それが一番早い。

けれども愛する人を突然失った心から、ガン細胞のように愛情だけを摘出するなんて無理だ。

「恵美、せめて訳だけでも聞かせてくれないか?」

彼女が消息を絶った事実、これからまたいなくなるという言葉。

ひとまずぜんぶ受け止めてから、その事情を知ることで納得する術しか、ぼくには浮かばなかった。
「買い物したいのよ。こんどはお肉を買ってこようかな」

恵美はクククと子供をからかうように笑う。

「じゃあいっしょに行こう、恵美。もう離れたくない」

「いやだよ」 

だって独りがいいからって……。

やがて飯が炊きあがる。食卓にカセットコンロと鍋物。

取り分け用の小鉢と飯が向かい合わせに二膳並んだ。

そういう食器なんかの類も、さっきどこそこで仕入れてきたんだあ、

と、恵美は嬉しそうに自慢する。

「今度はいつ戻ってくる?」

だのに、そういう大事な問いかけには、

「分からない」と間髪を入れずにまた返される。

ぼくは、椀に箸を揃えて置くと、とたんに堪えてきたものが一気に吹き出した。

「なあ、食べたくないよ!」

喉を通るはずがない。平らげてしまったら、きっと再び別れのときが来る。

恵美はまたクククと笑って、「泣くなよ、男子」 と、ぼくの肩をたたく。

ぼくは、その白い手を振り払って乱暴に叫んだ。

「じゃあもうやめていいか? もう手放していいか?!」

「いいよ、別に。あゆむのしたいようで」

恵美は飄々としている。

「恵美もあちこちで『したいように』勝手にやってんのか?!」

我ながら子供の泣きじゃくりって、きっとこういう感じなんだろうな。

「そういうわけじゃないよ。」

「お前が好きなんだ。お前がいなくちゃ嫌なんだ! なんでこの気持ちに寄り添ってくれない?!」
恵美も箸を止めた。

「あゆむ、うちもあなたのことが好きだってゆえばいいの?」

ぼくは、瞼を見苦しいくらいに腫らしているんだろう。

「ねえ、好きだとゆえば安心してくれるの?」

「……」

「好きだけど、うちはいっしょにいなくても平気だもん。独りで出かけられるもん」

じゃあぼくの気持ちは、恵美の中のどの位置に置かれているというのか?

「あゆむはうちを待ってなくていいよ。淋しいなら他のヒトを作んなよ。うちは本当にそれでもいいから」

「おい……そんなのないだろう……。誰が玲子よりも幸せにしてくれるってゆったんだよ……」

ぼくはうつむいて、何とかそう絞り出した。

「あゆむ、食べ終わったら、セックスしようよ。それくらいの時間は大丈夫だよ」

「よく、そんな風に淡々とゆえんなあ!」

クソッ!

 ぼくは膳ごとテーブルから掻き落とした。


それからぼくらは、ソファーでセックスをした。灯りをつけたままでした。

いっさいの思考を停めて、本能だけで身体を動かすようにした。

時がドラマの流れを急かしているかのように、ぼくらは急な坂を一気に駆け上がる。

「恵美、いっしょにシャワー 行く?」

恵美はそれさえも独りがいいと首を横に振る。

だから、彼女が先を取り、あとからぼくが行く。

その順番決めが恵美のどういう意図なのか、もう察しもつく。

けれども、二人の足跡を丁寧に踏むように今さら恵美に何かを問い質そうとしたって、

虚空を掴むだけなのだと分かっている。いっそ潔い方がいい。

シャワーから上がり化粧を直す恵美の肩に、ぼくはキスをした。

「じゃあな、恵美」

「うん」

恵美はそう答えたように覚えている。

ぼくは天辺から熱い湯を流し、同じ温度の涙が混じって流れた。

嗚咽は湯が身体を叩く音に紛れて、玄関の戸が静かに開閉する音もまた同じだった。

つづく

 

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。