浮惑なカモメ 第十話

第四章(2)

__ 2

四時までまだ十数分はあったけど、

『バスコダガマ』のウィンドウに汗ばむ自分の姿を映す。

いつもよりもちょっとはましだけども、

いきかうビジネスマンを横目に自分のさもしさを感じて嫌になった。

一呼吸置いて重々しい木戸を開ける。

「あのお、堀部さんはいらっしゃいますか?」

 フローリングにブラシをかけていた若目の女性従業員が、

「少しお待ちください」と厨房の奥に引っ込んだ。

 大航海に出る帆船。

その客間を想像させるような装飾と抑えた灯りで意匠を凝らしている。

あの四人掛けにバスコダガマがいる。

ほら、すぐそこにはマゼランも。

背中を向けているけれど、カウンターでコロンブスがワインを煽っている。

 おそらく堀部ってゆう名字の小太りの男が、ほどなく怪訝面を現した。

「えっと、サミーさんに紹介されてきました」

 ぼくは切り出した。

「ああ……」

はいはいと、堀部は的を得たとばかりの相槌を打つのだが、

少し様子がおかしい。もっと歓迎されても良いはずだから……。

「悪いけど、間に合ってるからさ」

 えっ? 本当に意味が分からなかった。


「困るんだよなあ、あの人。この店に顔が利くようなこと吹いてるみたいでさあ」

 堀部は意地の悪い笑みを浮かべた。

少なくともぼくにはそう映った。

時々こういう若いのが「サミーさんに紹介されて」って来るらしい。

「昔、同じ船で寝食を共にしたあれなんだけどねえ。
なんつーの、家族に愛想を尽かされて頭がイカレちまってからは、つきあいもほどほどにしてるんだけど」

 やっぱり昔馴染みの情をかけて、電話に出てやるくらいはするんだと。






 ものの五分もその店にはいなかっただろう。

なんともばつが悪くて、おずおずと引きさがり、

くらくらする頭を押さえて山下公園に出る。

それも無意識だったのだが、バッグから臭いタオルの一枚をひっかき出して尻の下に敷き、

港を臨むベンチにドスンと腰を下ろした。

タイを解く。

汗を拭う。

用意した履歴書を破き、波打ち際まで両手で隠してそっと放った。

腰丈ほどの柵に両腕をつくと、とめどもなく涙が溢れてくる。

桟橋の方から英治の悲鳴が聞こえる気がした。

ぼくは苦しいほど嗚咽する。

「ここじゃ死ぬことさえできないじゃないか」

このままこの海に飛び込んだって、どこかの気違いが烏の行水か、

と失笑を買う程度のことなのだ。


そばで海猫が、そんなぼくを見物して笑っている。




ずっと前、恵美は寂れた地方の漁港に暮らしたことがあるそうだ。

そこである男に惚れて身ごもった。男は働かなかったので、

彼女は漁師を相手に体を売ることを覚える。ほかに知恵もなかった。

けれど、暮らし始めてからふた月もしない頃、

誰かに石を投げられて怪我をする。

恵美は、 もう波の音と潮の匂いと、あんたが嫌になったと激昂した。

やっぱり横浜の女だ。

干物と青海苔だけじゃ腹が満たされないことくらい、最初から察しがつきそうなものなんだけど。

男は真面目に働くからとかなんとか。

最初は泣きついたけど、かえってぶん殴られ、さんざん足蹴にされて

未練も同情もかけてもらえることはなく捨てられた。

で、それからしばらくし、男は鮫に喰われたらしい。

恵美を抱いたこともある漁師の網に、そいつの上半身がかかったのだとか。

というのはいつだったか、

“娼婦になった訳 ”として、恵美自身がぽつぽつと語ったこと。


なんだかなあ。波に浮かぶカモメとなって、

そのザマをぼんやり眺めている自分を想像したことがある。

水掻き足に絡まる釣り糸の先に、あの男の下半身をぶらぶらと下げているようなぼくを。

そこが何て名前の港だったか、聞いたことはないけれど。

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

第 1話   第 2話   第 3話   第 4話   第 5話
第 6話   第 7話   第 8話   第 9話   第10話
第11話   第12話   第13話   第14話   第15話  

LINEで送る




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>


自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。