浮惑なカモメ 第九話

第四章(1)

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八月の初めには、僅かな食い扶持だった馴染み客も縁が絶えていた。

元締めだった鉄ママとはあの日から連絡もつかなかったし、

スナック小鉄には「テナント募集」の札が下がっている。

汪さんの店もまた入り口に鎖が掛けられ、ひっそりと闇に沈んでいた。 

身体を売って恵美の内側に少しでも近づいてみる試みも、

そろそろ馬鹿馬鹿しい気持ちになってきていた。

三週間ほど前に、ふとキラからのメールが入って、

「パパワ上海ニ帰リマシタ」と読んだ時、

もうこんなことは辞めようという思いが、なぜだかストンと胸の底に落ちた。

ぼくは「きみはいまどこにいるの?」と打ったが、送信はせずに携帯を閉じた。

もう関係のないことだった。





昨日、中華街のBAR・カルナバルで、

サミーってゆうハーフの中年オヤジと知り合いになった。

仕事をしていないでふらふらしている、ぼくがそう漏らすと、

知り合いのレストランで厨房の皿洗いを探しているらしいから、

繋ぎ仕事でやってみたらどうか、と、その場からすぐに電話を入れてくれた。

「明日の四時、海岸通りの『バスコダガマ』っていうレストランだ。
堀部っていう、店長をやっている男を訪ねて、『サミーの紹介で』って切り出すんだ。いいな」

と、サミーは口にした内容と同じことを書き留めてぼくに差し出す。


 彼はビールしか飲まないとゆうので、

ぼくは冷えたギネスを一杯おごった。

  と、サミーは顔をほころばせて、

ビートルズの日本公演で自分が前座の歌い手の付き人をしていたってことを話し出す。

「一曲目の『ツイスト・アンド・シャウト』が楽屋に聞こえてきた時、ありゃあ興奮したぜ」





 新しい仕事の面接はやはり緊張もする。久方ぶりに身綺麗にする。

 汗をかくだろうと思ったので、生乾きで臭いタオルを二枚バッグに突っ込んだ。

物干しの端からふと覗くと、隣の住人のベランダでサボテンが枯れていた。

トゲトゲが無造作に肉に刺さった感じがして痛々しかった。

ドアポストに家賃の催促状。

 丘の上から続く長い坂を下りながら、

ぼくはその紙を四つ折りにして臭いタオルの下に隠す。

まだ約束の四時までは余裕があるので、例によって野毛山の図書館で涼を取ることにする。

この頃、昼は図書館で涼むことを覚えた。

あそこにはCDやDVDの視聴ブースもある。

それにしても、少子化だっつうのに、生きる化石と想像していた浪人生なんて生き物が、

いまだこんなにもウヨウヨと生息していて、ライブラリーを跋扈(ばっこ)しているとは……。

惨めで精気の枯渇したやさぐれ者には、席を争うことさえ億劫だってば。

やっとこさ丸ソファーを一席抑えられたんで、新聞を広げられる。

練馬辺りで、老人がまた一人、熱中症で逝ったらしい。

さっきもヤフー携帯でそのニュースは見たけど。

それから図説「横浜の」ナントカ……ってゆうのを取ってくる。

あまりに厚くて重たい本なので、

「こんなの買う人いたのかな」とか苦笑いしながら、

数日数回に分けて読んでいる。その一節に吉川英治の記録を見つけて、眺めていた。

英治は明治25年に根岸に近い中村町で生まれた。

父は下級士族だったが、ビジネスに意欲的な人間だった。

牧畜や港湾のビジネスをしかけたが、ことごとく失敗。

あげくビジネスパートナーから訴訟を起こされて敗訴し収監された。

そういう少年時代の浮沈を経験し、英治は学校を中退してからハンコ屋、印刷工場、

船具工など勤め先を転々としたそうだ。

船具工の現場では過酷で危険な仕事ばかりで、

週に一二度、必ず怪我人や死人を仲間のうちに見た。

朝、仕事に出るとき家を振り向いては、家族との再会を日々案じていた。






ドッグの煙突から無尽蔵に吐き出される灰色の煤煙を吸って、

空がよじれながら苦悶の声を上げている。

焼けつく陽射しは土埃の舞う地面の温度をひたすらそそり上げ、

焦げたフライパンの上でぼくたちは虚しい馬鹿踊りをするばかりだった。

瞼を否応なしに乗り越えてくる汗を拭う。

拭った手の甲をその汗が汚すのか、

手にこびり付いて取れない油の方が眼球を汚しているのか、

よくも分からないが、ともかくパチパチとして下瞼がいっそう腫れぼったくなっていく。

家運を凋落させた父を恨んだ。朦朧とする。

もう足場には立ちたくない。そこに立つと巨大船の方が、

人間よりも守られるべき尊厳を有しているように思えた。

ドッグの底から呻きのような風の音が耳たぶを掴む。

そのまま引っこ抜かれて奈落に生け捕られる気がして滅入った。
 
 ぼくらは “カンカン虫 ”と呼ばれる。

貨物船の船体の錆を、こっちも錆びている平のみでひたすらカンカンとやる。

だからそう呼ばれるのさ、と、班長が先日ゆっていたけれど、

なんで「虫」と付くのかよく理解できてはいなかった。別の日に、

「なんで “虫 ”がつくのですか?」

と尋ねたら、班長は、

「アブラ虫みたいだからさ。おれたちは虫けらだ」

と、笑った。

 ぼくは笑えなかった。むしろ引きつった。

今朝は、出がけに妹のクニにゆってきた。

今日こそは死ぬかもしれないから、

そうとなったらスエと晋はまだ幼いからお前頼むぞ、と。

クニは、兄さんはいつもそういうことをおっしゃる、

と笑うだけだったが、

今朝は我ながら思いの込め方が少々違ったように思う。

「おれたちはなあ、アブラ虫なんだぞ。そら、そこのユキヤナギに寄生しているのと同じさ、な」

 現に、そう加えて苦笑いを浮かべながらゆった。

 クニはキョトンとして、それきり何も発さなかった。

「虫は虫なりに意地見せろ」

とか、班長は朝礼で威勢のいいことをのたまっていた。

 ぼくは一八歳也と年齢を偽ってまで、こんな陰気な吹き溜まりに身を置くなんて、

本来は気高いはずの己が……、と、ただただ惨めたらしくなった。

「虫は虫なりに!」

 班長は不必要にそれを連呼した。

 わざわざぼくの傍まで来て、

「虫は虫なりに!」

と、耳元で威勢を挙げた。

 ぼくはすくんだ。もう嫌だと思った。

 朝から、「虫は虫なりに」という言葉が脳内を何度も巡った。

ピンボールのように出口の見つからない球が遊んでいた。

足元からは熱線による蒸気が立って、ぼくら虫けらを呑んでいる。

肺がまずやられる。濁って生ぬるい海風が過ぎて、ぼくは終にダメだと悟った。

はじめ踝(くるぶし)の辺りの力が抜ける。

そうしてすぐに膝がカクンと折れた。もう力を込めることは出来なかった。

ザザザとエレキ的な残像で、見慣れた港の空が歪んだ。

刹那、まだ幕府というものが占めていた時代に生まれてみたかったと悔やむ。

それから、今さら父の愚行などどうでも良いとして、母とクニの顔が浮かんだ。

「サヨウナラ……」

 呟いた刹那、こともあろうか班長がまた浮かんだ。

「虫は虫なりに!」

 ぼくは、この時代に生まれたことを悔やんだ。

 さあ、落ちよう。スウっと。

奈落の底に着地しても痛みなど感じないだろう。死ぬのだから。

きっと、そこに未知の地平が広がっていて、ぼくはまた違う時代に再生しよう。

そこで今度こそ己が夢を語ろう。

維新の愚かさを説いて、新しい政(まつりごと)の在り方でも夢想しよう。

恋もしよう。美しい女とまだしたことのない交わりを経験し、

子供は三人ほどもいればいい。

子供は野辺の原に連れて、毬などで遊ぼう。ならば女子がいいか。

子の名は……、そうだな……、子の名は……、エミ。

エミ。

そして英治は足場もろともドッグの底に落下した。

 夢想に囚われ、血の気が引いて脂汗をかいている。




「譲ってくれませんか?」

と、見知らぬ老紳士に問われた。

「ええ、どうぞ」

 ぼくは、膝に置いていた図説「横浜の」ナントカを差し出した。

「いや、そうでなくて、ココ」

 老人は座りたいのだと指を差した。

「だってさっきからお兄さん眠っているだけでしょ?」

「眠ってはいませんが……」

と答える。

 老人は笑顔だったが、なんだかしわの隙間から怒気が覗いた気がして心地が悪かった。

サミーが口を利いてくれたはずの『バスコダガマ』に、もう向かおうか。

ぼくは席を立つ。

ざらざらの歩道をとぼとぼと落ちていく。

野毛商栄会の老舗が音頭を取って、歩道に打ち水をやっている。

アスファルトから湯気。

 大岡川の水面に揺れるクラゲ。

へへへ、ぼくはクラゲになりたい、と思った。

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つづく

 

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。