浮惑なカモメ 第十五話(最終話)

第六章(2)

__ 5

季節は春になった。

まだ肌寒い日の午後だった。

「で……、挙式はいつさ?」

 ぼくはおずおずと尋ねる。

「もうすぐ一年だから、そうしたらね」

「離婚記念日を過ぎたらってことか?」

 入籍は喪が明けてから、って気分でね。玲子は笑った。 

「あゆむのほうは? 恵美さんとどうなの、うまくやってるの?」

玲子は、この緩やかな風に乗せるようにさらりと聞いてきた。

「ああ、まあまあ……な」

 ぼくは薄く笑った。

玲子もぼくも、あれから一年近くが過ぎ、今の互いをたくさん知りたがる。

けれど、互いの現在を分かち合った所で、

巻き戻しの利かない過去と気持ちの折り合いがつくわけでもないことも知っている。

ねえ、ところで、

「松坂屋デパートの屋上で再会しようなんて、いかにもあゆむらしい」

約束を交わした時、そう思ったのだと、玲子は笑った。

もう間もなく十年にもなる。二人の初デートはここだった。

もっとも、感傷的な涙を誘うあれじゃない。

「あなたはこういう演出が好きね」

そう。あの頃のぼくはいつだって、

二人の時間にスパイスを利かせる「場」のアイテムを凝らしたがった。

「良く言えば優しいのだけれど、悪く言えばキザ。でも昔のわたしはそんなあゆむの性格が嫌いじゃなかった。今日わたしね、できるだけあの頃のメイクの仕方を思い出してみたの」

別れてもなお、こうしてきみを傷つけたぼくを受け入れることができるのか。

玲子の素直で純朴な笑顔が眩しい。

この屋上広場が、ではなく、玲子が今この瞬間ともに紡いでくれている時間は、

泣きたいほどに懐かしかった。

「あゆむ……なんかしみじみだね」

「ああ」

春の霞んだ青空を街のビル群が刻んでいる。

「昔は、あのあたりにちっちゃい観覧車があったよね」

玲子は、今子供が跳ねている辺りを指差した。

「ってゆうか……」

この居心地。相手が玲子でなきゃ感じない感覚。

「ん? なに?」

「いや……」

何でもない。

セピア色に染まってく自分の心模様を、ぼくはうまく伝えられる気がしなかった。

口にしかけた言葉を、ぼくもそっくり春風に預けた。

郊外に 庭付きの家を抑えた。ポーチに置くうさぎの置物をこの前買いに行って、

造園業者にミニ菜園と十種のハーブを注文した。

そんな風に忙しい週末は、彼の赤いプリウスで出かける。

昼は自由ケ丘あたりでカフェランチ。新居の手配であちこち回ったあと、晩はゴルフ練習とか。

新しいダンナは、わたしになんでもくれるのだと、玲子はゆう。

 “幸せ ”という単語までわざわざ使って、あなたと離れた今の暮らしが程良いのだと、

玲子はゆう。

「彼は、わたしを拾ってくれた。離婚したばかりで、疲れ果てていたわたしを」

その温かい胸に抱いた。

「髪が抜けちゃって隈もすごかったの」

化粧は面倒。ファッション誌なんて一切読みたい気持ちもない。

メアドを変えたら、女友達と疎遠になる。

「でも親の顔を思うと死ぬ気にもなれないでしょ?」

だから玲子はひとりぼっちで生きる覚悟もしていた。

きっかけは、ダンナからのディナーのお誘いメール。

彼は玲子の新しい派遣先で総務課長をしている。一部上場企業。

将来の約束されたサラリーマン。

「はじめは、渇いた女が御趣味かしら? って、疑ったけど……」

玲子の新しいパートナーはすぐに見つかった。

「会うこと」はずっと拒んできた。

顔を合わせればどんな気持ちになるのか、おおかた察しがついていたからだ。

「結婚することになったんだ。だから、もう一度あゆむに会っておきたい」

ぼくの心が動いたのは、先々週に入ったそんな内容のメールだった。

「へえ、おめでとう。じゃあ、その前に一度会っとくか……」

と、いつもより返信が敏速だったのも、正直に語れば開封するや否や、

キュッと心臓が痛んだからだ。

「あゆむに感謝してるの。」

「えっ? 恨んでいるの間違いだろ?」

と、ぼくはおどけた。

そうじゃない。

「たしかに、あなたはわたしを傷つけた。でもね、五年も付き合ってから、やっと結婚に踏み切った時ね、二人がお互いに果たすべき役割はもう終わっていたんじゃないかなって」

今でも時々玲子の夢を見る。

「なあ……ちょっと後悔してるか? 別れたこと」

忘れたことなんてない。

「ううん。してない」

玲子はきっぱりと答えた。

「そうか……。おれは、すげえ後悔してるぞ!」

 目まぐるしくギタギタした記憶が蘇る。

 ぼくを抱く男たちの厚顔。

 野毛の街角で反吐をはく酔っ払い。

 家族のために身体を売る中国女。

 凍えて逝ったサミー。

 ぼくの知らない男に抱かれる恵美。

 と、

「スゲエコウカイシテルゾ!」

近くにいたガキンチョがぼくの大身振りを真似て、

ぼくらは肝をくすぐられたかのようにカラカラと笑った。

久しぶりに腹を抱えた、ぼくはそう思った。

「でもいっしょにいた時、楽しかったよな」

「うん……。あなたはあなたなりの仕方でわたしを愛してくれた」

「……」

「わたし、そう信じたい。だから、あゆむは離婚を選んでくれたんだって。最後の日、わたしが今よりも “幸せ ”になるためだって」

 確かにそう、ぼくはゆった。

「玲子……、ぼくたちはこれからもっと楽しくならなくちゃいけないよな」

「……そうだね」

「会うのは今日だけだ」

ぼくはこみ上げてくるものを抑えてそうゆった。隣から涙の温度が伝わって来たけれど。

ぼくのきみが零したそれを、今は気が付かないふりをするのがいい。

なあ。玲子……。

「なに?」

「やっぱり化粧の仕方、変わったよな」


(了)


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浮惑なカモメ 第十四話

第六章(1)

写真 2 (1)

暮れに野毛の丘の上の1LDKを解約して、

  寿町の簡易宿泊所に移った。


 それから、年が明け間もなくして、サミーが死んだ。

突然だった。

なんだかんだはあるが、いいおやじだった。

正月早々にカルナバルで、愛飲のハバナの葉巻を分けてくれた。

最近娘の喘息がひどいって零していた。

来月には新しいギターが手に入ると弾ませていた。

 ぼくが、

「女の子の歌なんだけど、ジェシカローズってゆう、もう解散しちゃったバンドがあってね、彼女らの曲を弾いて歌ってみたい」

って、話したら、

「いいよ。にいさんにギター、教えてやるよ」

って、柔和な眼差しで応えてくれていた。

離れて暮らすマリさんの心配をしていた。

マリさんは前の奥さんらしい。

カルナバルで偶然出会うと、いつも音楽のことを嬉しそうに話してくれた。

ビートルズが武道館で歌った日、自分が前座の歌い手の付き人をしていたって話は、

もう何度も聞いた。

本牧の接収地で演奏していた若い頃の話も耳にタコだ。

船乗りだったから港を愛していた。

海猫がどうした、とか、ぼそぼそ垂らしていたけど、
適当に笑ってぼくは聞いていなかった。

最近の横浜は、別の土地の奴らが牛耳ってやがる、って舌を打つ。

ピンと来なかったけど、この街の若いのは元気がないんだと、
ただ嘆きたかったんだと思う。

酒は相変わらずビールと決まっていた。

酔ったサミーをあまり見たことはなかった。

だのに最後に会った日、珍しくサミーは潰れていた。

バーテンの『彼』に尋ねたら、知りません……と、首を振った。

カウンターに突っ伏したサミーが、とろんとした目を向けてぼくに語りかける。

「もう曲は出来ているんだ」

誰に聞かせたいのか、って聞いたら、

「娘と孫のサリ、それからマリに。 新しいギターで弾いて聞かせたい」

と、薄く笑った。呂律は回っていなかった。




サミーは死んだ。

明け方の中華街で、警官が路上で眠っているサミーを揺すり起こそうとする。

その時、もう冷たくなっていたのだと、カルナバルの『彼』が教えてくれた。

離れてくらすマリさんって人も、喘息持ちの娘も、 サリという名の孫も、

新しいギターや、もう出来ていたという曲も、

サミーが口にした全ての愛おしい存在たちは、本当にこの街に存在していたんだろうか?


 今となっては果たして分からない。

 サミーがくれたのと同じ銘柄を元町のシガーショップで手にいれた。

 火をつけた。

 この土の風味は、サミーの匂い。

 なあ、俺にはこれしかないけれど、 これで後を頼まれちゃあくれないか、と、

サミーに肩を叩かれたような気がした。
 

それからぼくは伊勢佐木モールの古道具屋で弦が一本切れたギターを手に入れて、
直しに出して、ジェシカローズの譜面も買った。

常連客にギターが弾けるとゆう僧侶がいるので、彼にちょこちょこ指南を受けて、

あとは独学と決める。

ジェシカの曲がまともに一つでも弾けるようになったら、

それはそれでサミーへの供養にもなるかと、意味のないことを考えていた。

「わけは何でもいいじゃねえか」

 昨日夢の中で、でき立てほやほやの楽譜をサミーに渡される夢を見た。

「にいさんよ、新しいナンカを始める元気が出たんだろう? な、あんた今、 “ファ ”じゃないぜ。 “カ ”だな」

 ケケケケ、サミーはイカレポンチな笑いをした。

 ぼくは何も答えなかった。何も答えないで、黙ったままその譜面を受け取った。

 その時だ。

全身がぞわっとする。

 譜を差し出してきたその手は、大きいけど重さのない、あの……、あの懐かしい手だった。

 ぼくは途端に涙が溢れて来る。

 そしてサミーを見ようとした。

何としてでも彼に邂逅しようとした。

 だのに、なぜだか、なぜなんだか、どうしても顎を上げることさえできない。

「行かないで……、行かないで」

 ぼくは歯をギシギシやって藻掻きながら、必死にそう絞り出していた。

つづく

 

by ケイ_大人

 

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浮惑なカモメ 第十三話

第五章(3)

__ 11

「夕飯の支度してるの」

恵美は、ほんとうに何事もなかったかのようにキッチンに立って仕事を始めていた。

「あゆむ、お腹すいたでしょ?」

ぼくは、まだ声が出なかった。

「今日はお鍋にしようと思ってね。鱈を買ってきたの。いいでしょ?」

「あのっ……」

「ん?」

「ほんとうに……恵美?」

ぼくは訝しげに尋ねる。




それは、横浜に初雪が降った十一月のある夜だった。

三人目にガチムチ女装子の客を迎えて終え、

くたくたに疲れてやっとこさ部屋に戻ったぼく。

そこに……恵美がいた。

恵美が戻ってきた。

いや、戻ってきたというよりも、離婚直後にこの部屋を契約して、

その頃に渡してあったアドレスを頼りにこの場所まで手繰り寄り、

そしてキーをカギ穴に入れて回して、勝手に上がり込み、

灯りを煌々と灯して鼻歌でも歌っている、とゆうべきか。

ぼくはあんまりびっくりして、ひとまずへなへなとしゃがみ込んでしまった。




「うん……うち、恵美だけど」

恵美は、ぼくが目を丸くしているのはなぜですか?

と逆に問い返す。

「だってさ、いきなり連絡がつかなくなって、あれから半年も過ぎて……」

とかなんとか、とにかくごにょにょと零しまくった。

「あのさ、あゆむ。これ作ったら、また行かなくちゃいけないの、うち」

「えっ?」

ごめんね、と、か細い声で恵美は呟いた。

慌ただしく手を動かす彼女の背中は、とたんに憂鬱な影を帯びた。

「どこへ? 仕事か?」

ぼくは恐る恐る聞く。

 そうじゃない、もうあんな仕事は辞めたんだ、と、あっけらかんにゆう。

「……じゃあ、どこ? 」

「分からないよ」

「分からないじゃ、分からないだろう。いきなり戻って来て、またどこかに行くって、
なんだよそれ!」

ぼくは堰を切ったように声を荒げた。

「あゆむ、淋しかったの?」

たんに淋しいなんて表現で説明などできない。

突然恋人が姿を消す。そして、その理由について皆目見当がつかなかったら、

当たり前に狂い死にそうになるさ。

男娼に落ちたことは抑えたとて、ぼくは質問に応えるつもりで、

いかに気持ちがすさんでしまったかをボロボロとこぼし続けた。

吐き出てくる言葉は、まるで子供の食べこぼす焼き菓子の欠片のようだ。

シンクに向かって鍋の用意をしていて背中を向けたままの恵美がチラッとこっちを見る。

「あゆむ、なんかちょっとやつれた?」

と。

そして、再び無言で背中をむけたままになった。

心配させて悪かったが、こういう女だから放っておいてくれていい、

虚しい空砲を鳴らし続けるぼくを遮り、しまいにはそうまとめようとした。

ぼくは恵美の立ち姿をずっとぼんやり見つめながら、

次にどんな言葉をぶつけたらよいのやら途方に暮れる。

さっきから震えだって止まないんだ。怒りからのじゃない。

今そこに立つ『恵美の実在そのもの』を疑う気持ちと、

間もなく再びの別れが必然に訪れることへの悲嘆が、交互に脳味噌を掻きまわしていく。

回復が見込めない船酔いに襲われた気分。

難破して大洋をさ迷う小船に揺られているようだ。

それでもぼくは、自分がどうしたら多少なりとも救われるのかを何とか思い付こうとしていた。

恵美への恋慕を投げ出すことができるなら、それが一番早い。

けれども愛する人を突然失った心から、ガン細胞のように愛情だけを摘出するなんて無理だ。

「恵美、せめて訳だけでも聞かせてくれないか?」

彼女が消息を絶った事実、これからまたいなくなるという言葉。

ひとまずぜんぶ受け止めてから、その事情を知ることで納得する術しか、ぼくには浮かばなかった。
「買い物したいのよ。こんどはお肉を買ってこようかな」

恵美はクククと子供をからかうように笑う。

「じゃあいっしょに行こう、恵美。もう離れたくない」

「いやだよ」 

だって独りがいいからって……。

やがて飯が炊きあがる。食卓にカセットコンロと鍋物。

取り分け用の小鉢と飯が向かい合わせに二膳並んだ。

そういう食器なんかの類も、さっきどこそこで仕入れてきたんだあ、

と、恵美は嬉しそうに自慢する。

「今度はいつ戻ってくる?」

だのに、そういう大事な問いかけには、

「分からない」と間髪を入れずにまた返される。

ぼくは、椀に箸を揃えて置くと、とたんに堪えてきたものが一気に吹き出した。

「なあ、食べたくないよ!」

喉を通るはずがない。平らげてしまったら、きっと再び別れのときが来る。

恵美はまたクククと笑って、「泣くなよ、男子」 と、ぼくの肩をたたく。

ぼくは、その白い手を振り払って乱暴に叫んだ。

「じゃあもうやめていいか? もう手放していいか?!」

「いいよ、別に。あゆむのしたいようで」

恵美は飄々としている。

「恵美もあちこちで『したいように』勝手にやってんのか?!」

我ながら子供の泣きじゃくりって、きっとこういう感じなんだろうな。

「そういうわけじゃないよ。」

「お前が好きなんだ。お前がいなくちゃ嫌なんだ! なんでこの気持ちに寄り添ってくれない?!」
恵美も箸を止めた。

「あゆむ、うちもあなたのことが好きだってゆえばいいの?」

ぼくは、瞼を見苦しいくらいに腫らしているんだろう。

「ねえ、好きだとゆえば安心してくれるの?」

「……」

「好きだけど、うちはいっしょにいなくても平気だもん。独りで出かけられるもん」

じゃあぼくの気持ちは、恵美の中のどの位置に置かれているというのか?

「あゆむはうちを待ってなくていいよ。淋しいなら他のヒトを作んなよ。うちは本当にそれでもいいから」

「おい……そんなのないだろう……。誰が玲子よりも幸せにしてくれるってゆったんだよ……」

ぼくはうつむいて、何とかそう絞り出した。

「あゆむ、食べ終わったら、セックスしようよ。それくらいの時間は大丈夫だよ」

「よく、そんな風に淡々とゆえんなあ!」

クソッ!

 ぼくは膳ごとテーブルから掻き落とした。


それからぼくらは、ソファーでセックスをした。灯りをつけたままでした。

いっさいの思考を停めて、本能だけで身体を動かすようにした。

時がドラマの流れを急かしているかのように、ぼくらは急な坂を一気に駆け上がる。

「恵美、いっしょにシャワー 行く?」

恵美はそれさえも独りがいいと首を横に振る。

だから、彼女が先を取り、あとからぼくが行く。

その順番決めが恵美のどういう意図なのか、もう察しもつく。

けれども、二人の足跡を丁寧に踏むように今さら恵美に何かを問い質そうとしたって、

虚空を掴むだけなのだと分かっている。いっそ潔い方がいい。

シャワーから上がり化粧を直す恵美の肩に、ぼくはキスをした。

「じゃあな、恵美」

「うん」

恵美はそう答えたように覚えている。

ぼくは天辺から熱い湯を流し、同じ温度の涙が混じって流れた。

嗚咽は湯が身体を叩く音に紛れて、玄関の戸が静かに開閉する音もまた同じだった。

つづく

 

by ケイ_大人

 

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浮惑なカモメ 第十二話

第五章(2)

__ 4

 九月になって、横浜に戻ってきた鉄ママから久しぶりに連絡が入る。

「また商売するから、ねえ、たのむわよ、あゆちゃーん?」

って。

 部屋の家賃もかれこれ三ヶ月分滞ってしまい、

そろそろ何時追い出されても仕方がないかと、

荷造り用の段ボールやなんかを拾い始めた矢先だった。

男娼業は心底「今さらもう」だったんだけど、

他に仕事を探す気も起きないし、

この部屋を出たら寿町の簡易宿泊所でも探そうかなって、

落ちぶれた自分の未来さえ想像していたから、

まあちょうどいいアレか、って、自嘲した。

ひとまず年内は出来るだけ稼いで、それから辞めようか……、

なぁんて適当な考えでフラフラしていたら、

二度目の男デビューで案外男の気持ちよさに覚醒し……。

客につけば必ず、ファックをせがんだ。


思い切って、鉄ママに「タチの掘り士限定ね」
って冗談半分に手を合わせへ行ったら、

「あたしも味見していいかしら? ?」

と、恵美の乳首みたいな色の深紅のドレッサーに正対して、
顎髭頬髭を抜いていた坊主オヤジが、
おもむろに皮の被ったペニスを露出する。

「でもその状態じゃあ……」

 ぼくは呆れた苦笑いを浮かべる。

「あたしリバだけど、きほんネコっけが強いわけ。だから、ね、はい、あゆちゃーん?」

 まだ竹の子状態のそれをクリクリ図々しくも差し出してくる。

 ぼくは「まあ(これも)流れだから(しようがない)」と膝をついた。

 ほのかに小便の臭いがする。唇を使ってゆっくりと包皮を剥きながら、

口内の舌上をするりするりと滑らせていく。

「あんっ?」

 このオヤジ、気味の悪い喘ぎ声を洩らす。

ぼくはつくづくそう思った。

 ふと視線だけ上にずらすと、

海老反ったママの恍惚に歪む表情と、ぼくの黒髪が上下にわさわさと動くのだけを、

化粧鏡が映している。

 ここから見えるぼくみたいに、ぼくにはもう顔がないのかもしれない。

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

 

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浮惑なカモメ 第十一話

第五章(1)

__ 3

 

 何日かしてカルナバルのカウンターでサミーと再会した。

ぼくに責める気持ちは毛頭なかったのだけど、むこうから先に詫びを入れてきた。

「にいさん、すまなかった」と。

 ぼくはカンパリをショットで流し込んで、

「気にしていないですから」と返した。

「今日は、いっぱい奢らせてくれ」

と、サミーはバーテンの『彼』に人差し指を立てて注文をする。

そして、ゆっくりと喋り始めた。

「堀部はずいぶんとずれちまったな。海にいた時はそんなやつじゃなかった。 陸に上がってからは保身だけだ」

と、サミーは舌打ちをする。

 ぼくは何も答えなかった。

「ロックシンガーの雑用を首になったばかりで、海運のことなんかこれっぽっちも分からない俺に、あの人は随分と世話焼いてくれたんだが……」

堀部とゆう男が、サミーのことを「イカレテル」と表現したことが思い出されたけど、

実際、サミーの気が触れてしまったのか、それとも堀部の性格が変わってしまったのか、

そんなことは別にどっちでも良かった。

「ねえ、ところでにいさん。ドレミだったら、きみは今どこさ?」

唐突にどういう意味だ?

謎かけ問答には付き合いたくない。

横に並んだ二人の間には二席が空いている。

ここにちょっと年上の未亡人でも早く座ってくれないかしら。

「ねえ?」

 首を小さく縦に振って、彼は執拗に回答をせがむ。

「じゃあ、ファです。これでいいですか?」

と、ぼくは嘆息と一緒にそう漏らした。

彼は、沈着に頬筋の力を抜き、

「にいさん、そう言うと思った」

と、切り込んでみせてケケケと笑った。

「どうして?!」

 大上段から問答を仕掛けられているようで、ぼくは苛っとくる。

 それでもサミーは構うことなくこう続けた。

「音階が人生の隠喩として、きみは中ほどを選ぶと。まあ無難だよ、俺にしても、若い時はそうだったね。生きる時間軸と楽譜上の物理的な記号を重ねて見るわけだ」

 なんかの意図をもって “ファ ”と返答したわけでもない。

「じゃあ、さっきの質問を逆に問うが、ドレミだったら、サミーは今どこなんです?」

と、突き返してやる。

 すると、

「 “カ ”だ。 〝オレの勝手さ ″の “カ ” だ」

と、またケケケと笑う。

「なに?」

と、ぼくは憮然とした。

「あなた、やっぱりイカレテルんじゃないの?」

「まあそうかもしれない」

 サミーは努めて穏やかに同調した。

「でも一つ、若いきみに言っておきたい。少しだけ長く生きた者として」

なに? なんだよ?

「三十年、四十年生きたからって、それが人生という音階の半ばじゃないってことだ」

 わかる? と、サミーはコロナビールを一気に飲み干して席を立った。

 

 

独りバーカウンターに残ったぼくは、

サミーがキザったらしく残した人生訓に考えを巡らせたり……、 なーんかは全くするはずもなくって、ちびちびーちびちびーとカンパリを口に含んでいた。

と、ゆっても、もう七、八杯は行ったか……。

深夜一時を回って、「お客様、そろそろ店仕舞いなので」と、

バーテンの『彼』が気を利かせてチェイサーをトン。

「ありがとう」、愛想笑いを浮かべるが、

立ち上がって家路に就く気が起こらない。

富士の天然水を一気に流し込むと、ぼくはだるい体を何とか引っ張り上げる。

ドロドロのため息が足元の暗がりにベタっと流れ落ちた。

「またよろしくお願いします」

と、バーテンの『彼』が丁寧に頭を下げる。

「ねえ、さっきぼくとサミーの会話を聞いていたろ?」

 すると『彼』は「さて……」と空いたグラスを引っ込めながら呟いた。

「ドレミだったら、きみは今どこだい?」

 『彼』は、しばし視線を宙に彷徨わせ、「私は……」と切り出しかける。

「あっ、やっぱりいいんだ。大した話じゃないしね」

「すみません。では、今度までに」

と、恐縮した様子でもう一度小首を垂れた。

__ 1

つづく

 

by ケイ_大人

 

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浮惑なカモメ 第十話

第四章(2)

__ 2

四時までまだ十数分はあったけど、

『バスコダガマ』のウィンドウに汗ばむ自分の姿を映す。

いつもよりもちょっとはましだけども、

いきかうビジネスマンを横目に自分のさもしさを感じて嫌になった。

一呼吸置いて重々しい木戸を開ける。

「あのお、堀部さんはいらっしゃいますか?」

 フローリングにブラシをかけていた若目の女性従業員が、

「少しお待ちください」と厨房の奥に引っ込んだ。

 大航海に出る帆船。

その客間を想像させるような装飾と抑えた灯りで意匠を凝らしている。

あの四人掛けにバスコダガマがいる。

ほら、すぐそこにはマゼランも。

背中を向けているけれど、カウンターでコロンブスがワインを煽っている。

 おそらく堀部ってゆう名字の小太りの男が、ほどなく怪訝面を現した。

「えっと、サミーさんに紹介されてきました」

 ぼくは切り出した。

「ああ……」

はいはいと、堀部は的を得たとばかりの相槌を打つのだが、

少し様子がおかしい。もっと歓迎されても良いはずだから……。

「悪いけど、間に合ってるからさ」

 えっ? 本当に意味が分からなかった。


「困るんだよなあ、あの人。この店に顔が利くようなこと吹いてるみたいでさあ」

 堀部は意地の悪い笑みを浮かべた。

少なくともぼくにはそう映った。

時々こういう若いのが「サミーさんに紹介されて」って来るらしい。

「昔、同じ船で寝食を共にしたあれなんだけどねえ。
なんつーの、家族に愛想を尽かされて頭がイカレちまってからは、つきあいもほどほどにしてるんだけど」

 やっぱり昔馴染みの情をかけて、電話に出てやるくらいはするんだと。






 ものの五分もその店にはいなかっただろう。

なんともばつが悪くて、おずおずと引きさがり、

くらくらする頭を押さえて山下公園に出る。

それも無意識だったのだが、バッグから臭いタオルの一枚をひっかき出して尻の下に敷き、

港を臨むベンチにドスンと腰を下ろした。

タイを解く。

汗を拭う。

用意した履歴書を破き、波打ち際まで両手で隠してそっと放った。

腰丈ほどの柵に両腕をつくと、とめどもなく涙が溢れてくる。

桟橋の方から英治の悲鳴が聞こえる気がした。

ぼくは苦しいほど嗚咽する。

「ここじゃ死ぬことさえできないじゃないか」

このままこの海に飛び込んだって、どこかの気違いが烏の行水か、

と失笑を買う程度のことなのだ。


そばで海猫が、そんなぼくを見物して笑っている。




ずっと前、恵美は寂れた地方の漁港に暮らしたことがあるそうだ。

そこである男に惚れて身ごもった。男は働かなかったので、

彼女は漁師を相手に体を売ることを覚える。ほかに知恵もなかった。

けれど、暮らし始めてからふた月もしない頃、

誰かに石を投げられて怪我をする。

恵美は、 もう波の音と潮の匂いと、あんたが嫌になったと激昂した。

やっぱり横浜の女だ。

干物と青海苔だけじゃ腹が満たされないことくらい、最初から察しがつきそうなものなんだけど。

男は真面目に働くからとかなんとか。

最初は泣きついたけど、かえってぶん殴られ、さんざん足蹴にされて

未練も同情もかけてもらえることはなく捨てられた。

で、それからしばらくし、男は鮫に喰われたらしい。

恵美を抱いたこともある漁師の網に、そいつの上半身がかかったのだとか。

というのはいつだったか、

“娼婦になった訳 ”として、恵美自身がぽつぽつと語ったこと。


なんだかなあ。波に浮かぶカモメとなって、

そのザマをぼんやり眺めている自分を想像したことがある。

水掻き足に絡まる釣り糸の先に、あの男の下半身をぶらぶらと下げているようなぼくを。

そこが何て名前の港だったか、聞いたことはないけれど。

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

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浮惑なカモメ 第九話

第四章(1)

__ 2

八月の初めには、僅かな食い扶持だった馴染み客も縁が絶えていた。

元締めだった鉄ママとはあの日から連絡もつかなかったし、

スナック小鉄には「テナント募集」の札が下がっている。

汪さんの店もまた入り口に鎖が掛けられ、ひっそりと闇に沈んでいた。 

身体を売って恵美の内側に少しでも近づいてみる試みも、

そろそろ馬鹿馬鹿しい気持ちになってきていた。

三週間ほど前に、ふとキラからのメールが入って、

「パパワ上海ニ帰リマシタ」と読んだ時、

もうこんなことは辞めようという思いが、なぜだかストンと胸の底に落ちた。

ぼくは「きみはいまどこにいるの?」と打ったが、送信はせずに携帯を閉じた。

もう関係のないことだった。





昨日、中華街のBAR・カルナバルで、

サミーってゆうハーフの中年オヤジと知り合いになった。

仕事をしていないでふらふらしている、ぼくがそう漏らすと、

知り合いのレストランで厨房の皿洗いを探しているらしいから、

繋ぎ仕事でやってみたらどうか、と、その場からすぐに電話を入れてくれた。

「明日の四時、海岸通りの『バスコダガマ』っていうレストランだ。
堀部っていう、店長をやっている男を訪ねて、『サミーの紹介で』って切り出すんだ。いいな」

と、サミーは口にした内容と同じことを書き留めてぼくに差し出す。


 彼はビールしか飲まないとゆうので、

ぼくは冷えたギネスを一杯おごった。

  と、サミーは顔をほころばせて、

ビートルズの日本公演で自分が前座の歌い手の付き人をしていたってことを話し出す。

「一曲目の『ツイスト・アンド・シャウト』が楽屋に聞こえてきた時、ありゃあ興奮したぜ」





 新しい仕事の面接はやはり緊張もする。久方ぶりに身綺麗にする。

 汗をかくだろうと思ったので、生乾きで臭いタオルを二枚バッグに突っ込んだ。

物干しの端からふと覗くと、隣の住人のベランダでサボテンが枯れていた。

トゲトゲが無造作に肉に刺さった感じがして痛々しかった。

ドアポストに家賃の催促状。

 丘の上から続く長い坂を下りながら、

ぼくはその紙を四つ折りにして臭いタオルの下に隠す。

まだ約束の四時までは余裕があるので、例によって野毛山の図書館で涼を取ることにする。

この頃、昼は図書館で涼むことを覚えた。

あそこにはCDやDVDの視聴ブースもある。

それにしても、少子化だっつうのに、生きる化石と想像していた浪人生なんて生き物が、

いまだこんなにもウヨウヨと生息していて、ライブラリーを跋扈(ばっこ)しているとは……。

惨めで精気の枯渇したやさぐれ者には、席を争うことさえ億劫だってば。

やっとこさ丸ソファーを一席抑えられたんで、新聞を広げられる。

練馬辺りで、老人がまた一人、熱中症で逝ったらしい。

さっきもヤフー携帯でそのニュースは見たけど。

それから図説「横浜の」ナントカ……ってゆうのを取ってくる。

あまりに厚くて重たい本なので、

「こんなの買う人いたのかな」とか苦笑いしながら、

数日数回に分けて読んでいる。その一節に吉川英治の記録を見つけて、眺めていた。

英治は明治25年に根岸に近い中村町で生まれた。

父は下級士族だったが、ビジネスに意欲的な人間だった。

牧畜や港湾のビジネスをしかけたが、ことごとく失敗。

あげくビジネスパートナーから訴訟を起こされて敗訴し収監された。

そういう少年時代の浮沈を経験し、英治は学校を中退してからハンコ屋、印刷工場、

船具工など勤め先を転々としたそうだ。

船具工の現場では過酷で危険な仕事ばかりで、

週に一二度、必ず怪我人や死人を仲間のうちに見た。

朝、仕事に出るとき家を振り向いては、家族との再会を日々案じていた。






ドッグの煙突から無尽蔵に吐き出される灰色の煤煙を吸って、

空がよじれながら苦悶の声を上げている。

焼けつく陽射しは土埃の舞う地面の温度をひたすらそそり上げ、

焦げたフライパンの上でぼくたちは虚しい馬鹿踊りをするばかりだった。

瞼を否応なしに乗り越えてくる汗を拭う。

拭った手の甲をその汗が汚すのか、

手にこびり付いて取れない油の方が眼球を汚しているのか、

よくも分からないが、ともかくパチパチとして下瞼がいっそう腫れぼったくなっていく。

家運を凋落させた父を恨んだ。朦朧とする。

もう足場には立ちたくない。そこに立つと巨大船の方が、

人間よりも守られるべき尊厳を有しているように思えた。

ドッグの底から呻きのような風の音が耳たぶを掴む。

そのまま引っこ抜かれて奈落に生け捕られる気がして滅入った。
 
 ぼくらは “カンカン虫 ”と呼ばれる。

貨物船の船体の錆を、こっちも錆びている平のみでひたすらカンカンとやる。

だからそう呼ばれるのさ、と、班長が先日ゆっていたけれど、

なんで「虫」と付くのかよく理解できてはいなかった。別の日に、

「なんで “虫 ”がつくのですか?」

と尋ねたら、班長は、

「アブラ虫みたいだからさ。おれたちは虫けらだ」

と、笑った。

 ぼくは笑えなかった。むしろ引きつった。

今朝は、出がけに妹のクニにゆってきた。

今日こそは死ぬかもしれないから、

そうとなったらスエと晋はまだ幼いからお前頼むぞ、と。

クニは、兄さんはいつもそういうことをおっしゃる、

と笑うだけだったが、

今朝は我ながら思いの込め方が少々違ったように思う。

「おれたちはなあ、アブラ虫なんだぞ。そら、そこのユキヤナギに寄生しているのと同じさ、な」

 現に、そう加えて苦笑いを浮かべながらゆった。

 クニはキョトンとして、それきり何も発さなかった。

「虫は虫なりに意地見せろ」

とか、班長は朝礼で威勢のいいことをのたまっていた。

 ぼくは一八歳也と年齢を偽ってまで、こんな陰気な吹き溜まりに身を置くなんて、

本来は気高いはずの己が……、と、ただただ惨めたらしくなった。

「虫は虫なりに!」

 班長は不必要にそれを連呼した。

 わざわざぼくの傍まで来て、

「虫は虫なりに!」

と、耳元で威勢を挙げた。

 ぼくはすくんだ。もう嫌だと思った。

 朝から、「虫は虫なりに」という言葉が脳内を何度も巡った。

ピンボールのように出口の見つからない球が遊んでいた。

足元からは熱線による蒸気が立って、ぼくら虫けらを呑んでいる。

肺がまずやられる。濁って生ぬるい海風が過ぎて、ぼくは終にダメだと悟った。

はじめ踝(くるぶし)の辺りの力が抜ける。

そうしてすぐに膝がカクンと折れた。もう力を込めることは出来なかった。

ザザザとエレキ的な残像で、見慣れた港の空が歪んだ。

刹那、まだ幕府というものが占めていた時代に生まれてみたかったと悔やむ。

それから、今さら父の愚行などどうでも良いとして、母とクニの顔が浮かんだ。

「サヨウナラ……」

 呟いた刹那、こともあろうか班長がまた浮かんだ。

「虫は虫なりに!」

 ぼくは、この時代に生まれたことを悔やんだ。

 さあ、落ちよう。スウっと。

奈落の底に着地しても痛みなど感じないだろう。死ぬのだから。

きっと、そこに未知の地平が広がっていて、ぼくはまた違う時代に再生しよう。

そこで今度こそ己が夢を語ろう。

維新の愚かさを説いて、新しい政(まつりごと)の在り方でも夢想しよう。

恋もしよう。美しい女とまだしたことのない交わりを経験し、

子供は三人ほどもいればいい。

子供は野辺の原に連れて、毬などで遊ぼう。ならば女子がいいか。

子の名は……、そうだな……、子の名は……、エミ。

エミ。

そして英治は足場もろともドッグの底に落下した。

 夢想に囚われ、血の気が引いて脂汗をかいている。




「譲ってくれませんか?」

と、見知らぬ老紳士に問われた。

「ええ、どうぞ」

 ぼくは、膝に置いていた図説「横浜の」ナントカを差し出した。

「いや、そうでなくて、ココ」

 老人は座りたいのだと指を差した。

「だってさっきからお兄さん眠っているだけでしょ?」

「眠ってはいませんが……」

と答える。

 老人は笑顔だったが、なんだかしわの隙間から怒気が覗いた気がして心地が悪かった。

サミーが口を利いてくれたはずの『バスコダガマ』に、もう向かおうか。

ぼくは席を立つ。

ざらざらの歩道をとぼとぼと落ちていく。

野毛商栄会の老舗が音頭を取って、歩道に打ち水をやっている。

アスファルトから湯気。

 大岡川の水面に揺れるクラゲ。

へへへ、ぼくはクラゲになりたい、と思った。

__ 5

つづく

 

by ケイ_大人

 

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浮惑なカモメ 第八話

第三章(2)

写真 1 (3)

 

タクシーを丘の上で降りて寝城までキラの手を引いて来ると、

戸の前でキラはその手を解いた。

「アリガトウ。ワタシ、ヤッパリ店ニ戻リマス」

少し休んでいけばいい、ぼくはその頬を撫でる。

「デモ皆ガ心配デス」

「キラが戻っても何も変わらない」

 それに拘束されれば、まちがいなく国に返されてしまうはずだ。

「分カッテイマス。デモ……」

 キラはその場にしゃがみ込んで泣きだしてしまった。

「ワタシ、ドウスレバ……」




 携帯越しに鉄ママの慌てた様子を察した。

「ちょっとヤバいみたいなのよ。いい、今からすぐにその店を出て。
今日は自宅に戻りなさい」

「どうしたんです?」

「いいから、話は後で。いいわね、あたしも今日は早閉めするから」

と、電話は一方的に切られてしまった。

 ほどなく、店の戸口が慌ただしくなる。ボーイの男や待機の女たちがざわつく。

久美がこの席に駆け寄ってきて、意味の分からない中国語でキラに何やら説明をしている。

「荷物トッテキマス」

 キラはにわかに席を立った。

 すると今度はぼくに事情を訴える。

「アユムクン、警察ガ表ニ来タカラ、キラト一緒ニ裏カラ出テ。
コノ子、正シイノビザマダナイカラ、ネ、ゴメン、オ願イシマス」

「本当ワ、久美モ働クビザナイ」

 キラはぼくのベッドに腰をかけ、訥々と零し始めた。

久美もキラも留学生ビザで日本に来ている。
生活費を稼ぐために、汪さんの店でホステスをしていたのだとゆう。

「でも、そのくらいのあれなら、うまくするとすぐに釈放されると思うけど」

「久美ワ、他ノ悪イコトモシテイテ……」

 ぼくにはそれが何なのかすぐに見当もついた。

「ワタシタチ、パパニワ 逆ラエマセン。アノ人コワイ人」

 ぼくを犯す時、汪さんは薄気味悪い笑みを浮かべている。

恍惚とも蔑みとも見分けのつかない顔の緩みだった。
いまあの表情がパッとフラッシュバックした。

「久美、言ッテマシタ。 野毛ノゲイノ人ガ、中国人女スキナ客ヲ、パパニ紹介スルッテ」

 そうして久美たちは、指定された部屋に出向き男たちの相手をしていた、と。

「デモ、アユムサン、信ジテ。ワタシワ、マダ 来タバカリ。
ダカラ、マダソウイウコト知ラナイ。ヤッテナイ」

 カーテンを開けた。眼下に街の灯り。

ぼくの細胞たちは、びしょびしょになりながら息苦しくしている。

ドロドロになって藻掻きながら、なんとかして生き延びようとしている。

「久美ワ優シクテ、ワタシヲ妹ダッテ言ッテクレマシタ」

 だからキラが助けに行きたい、と。

「悪いけど……やめたほうがいい」

 何事もなく済んで汪さんの下にいることが、

彼女たちの幸せとはとても思えなかった。

「デモ……」

 キラはなにか話しかけたが、また俯いてしまった。

「キラはお父さんのために頑張るんだろう? 学生ビザでも正規に働けるところはあるはずだし……」

「ソレデワ、オ金稼ゲナイ。ワタシ、来月知ラナイ日本人ノ人ト結婚スル。
会ッタコトナイ人ト。ソレニモオ金カカル。オ父サンノ病気ワ、モット一杯カカル」

 金のためにこの街に来て、この街で働くために金を使う。

 けれど、キラはこの国の法律、あるいは貧困とか格差とか。

そういう難しいことを恨んじゃいないのだろう。

 もし恨む相手があるなら、稼ぎの悪い自分自身のことくらいかもしれない。

 ぼくはそっとカーテンを閉めた。

「逃ゲテモ仕方ナイノデス。結局、ワタシワ、アノ街ニ戻ルシカナイ」

 キラは指先の丸い手で毛布の際をギュッとする。

 ぼくは斜に向き合うように座って細い肩を抱いた。

キラはすっかり重くなった頭を、ぼくの肩に寄りかける。

「アユムサン、スミマセン」

 いいんだ、と、ぼくはその黒髪を撫でた。

「ワタシ、マダ男ノ人知リマセン」

「……」

「ワタシヲ、買ッテクレマスカ?」

「えっ?」

 キラは少し顔をもたげて、ぼくをまっすぐに見つめた。

「……」

言葉が喉奥に詰まって声が出ない。

その瞳は、恵美と初めて出会った時と同じ、悲しみの色をしている。

売られる雌牛の目。

 ぼくは咄嗟に座を立って逃げ出したくなる。

「ゴメンナサイ、冗談デス」

 彼女は赤面して俯いた。

「ゴメンナサイ、ワタシ……」
 



 恵美は商売にかかるとき、ぷすって穴のあく音を聞くのだとゆっていた。

黒くてちっちゃな点が空いて。

すぐにその黒が染みのように滲みだし、焦げた水溜まりみたいのがいくつも出来てく。

はじめは一つ二つって。そのうち塵かすが一杯に増えて、

「中で大きな塊になっていくの。水に浮いた虹色の油みたいに、
白点の気泡が僅かに心の中に残って、そこにうちはどっかと腰を下ろして、
男が果てるのを待つんだ」

風が吹いて目が覚めると、黒墨の水面に小舟が流れてくる。

「そこにいつもあゆむがいるの。

もう『帰ろう』って、右手を差し出すの。

怖い顔して、探したって。

うち、首を振ったら 、

あなたは急にバニラアイスクリームみたいな笑顔になって、

『ばかちゃん、ばかちゃん』って、地団駄を踏んでいる」

 そしたら蓮の葉で出来ている船底に穴があいて水が漏ってしまう。

「あなたはとたんに慌てて、『どうしよ、どうしよ』って、右往左往すんの。 うち、『しめた!』って、そこらへんから小石を拾って投げたわ」

酷い話だな、とぼくは苦笑った。

「それでも飽きたらなくって大きな黒雲母を放って、舟ごと沈めてやるの。
あなたは溺れて藻掻いて、『虫歯の治療が終わってないのに』って、泣いていたわ。
でもなんかいいでしょ? この話」



 
「黒い水に溶けてしまえばいい」

「エッ?」

「深い底の、そのまたずっと底に沈んでしまえばいい……」

「何? 意味分カラナイ」

 キラは小首を傾げた。

「ぼくには、待っていなくちゃいけない女がいるんだ。だからきみを抱けない」

 キラは数百円のビニール傘をありがたそうに受け取り、部屋を出ていった。

 去り際、何も持っていないのだけれどせめてのお礼と、未開封のドロップスを置いていった。

ぼくは要らない、と、拒んだのだけれど。それはスターバックスのモカキャンディだった。

 一つ口にする。

 甘くて、苦くて、黒い味がした。


写真 2

 

つづく

 

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浮惑なカモメ 第七話

第三章(1)

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あの夢が、いま形を変えてうつつのものになっているのか。

「ワタシ、マダ 中国ニ帰レナイ……帰リタクナイ」

雨に濡れる花街のネオン。

キラは車窓越しに見つめながら、ぽつりそう呟いた。

 ぼくはキラの震える手を握る。

冷たい……。

 ぼくは、その手にあるだけの温度を送った。

 ジェベッタ・スティールの『コーリング・ユー』がカーステレオから流れだす。

 ぼくはメロディラインにかすれた口笛を合わせた。

「お好きですか?」

と、タクシードライバー。

「あの映画、好きで」

「ああ、何ていいましたかね、えっと……」

「『バグダット・カフェ』」

「そう、そうだ」

 タクシードライバーは、まだ独身の頃、渋谷の映画館で恋人と鑑賞した思い出を振り返る。

話の筋がよく分からなくて、途中で居眠りをしてしまった、と笑った。

「でもこの曲は印象に残ってましてね。いい曲だ、渇いていて」

 車窓に幾重もの雨の滴が垂れている。

 

   汪さんはすっかりぼくの食い扶持になっていた。

汪さんの経営する福富町の中国人女性クラブで飲ませてもらうこともしばしばだった。

それでセックスをしなくてすむこともあった。

「九時頃店で待つように」

と、その日も鉄ママからの指示を受け、ぼくは独りでもてあましていた。

傍らにはもうすっかりこの店で馴染みになった、久美という女が座っているが。

「アユムクンワ、パパノ恋人?」

 この店で女たちは汪さんのことをパパと呼ぶ。

「そんなんじゃないさ」

 ぼくはJINROを煽る。

「パパガ来ル、イツモ出カケルデショ? パパモ嬉シソウダヨ」

 ふうん。ぼくは答えなかった。

「ネエ、パパ、アナタガ好キ?」

 久美はニヤニヤと小声で尋ねてくる。

「さあ」

 ぼくは、つまみの渇き物に手を伸ばす。

「ジャ、アナタワ?」

「さあ」

 関心などないけれど、正直を喋ったらどう漏れるか怖かったので

小首を傾げて曖昧な態度をみせた。

「失礼シマス」

 その時、新顔の女が正面の丸椅子に着く。

「ハジメマシテ、キラデス」


 キラ……。


「どうも」

 ぼくは愛想のない会釈をした。

 久美に指名客が入り暫時席を外すというので、

キラが横に座を移して酒を作り直した。

「アユムサンワ、パパノオ客様デショ? 久美ニ聞キマシタ」

「……」

「今日、パパ遅イデスネ」

 たしかに。いつもは約束の時間にちょうど来るか、
早々と構えていることさえあるというのに。

もう時刻は九時半を回っている。

小鉄ママにそろそろ問合せをするべきか……。

「キラワ、マダ日本語下手ダカラ、教エテクダサイ」

 キラはにこりと笑って、ペコリと頭を下げた。

化粧気がなく、指先は子供のように丸い。

髪も無造作で、すれた印象はない。

「いつこっちに来たの?」

 ぼくは尋ねた。

「三月ニ来マシタ」

 暫く福岡にいて、最近横浜に移ったのだとゆう。

「ワタシノオ父サン、病気ダカラ、ワタシガ頑張ルノコト、仕方ガナイデス」

 ふと、炎天下の落花生畑でバタリと倒れる農夫のイメージがよぎる。

「日本ハ良イトコデス。ミナ優シイシ。キレイ」

 ぼくは、じっと耳を傾け見つめていた。

刹那、キラの狭いおでこに憂鬱の影が覗く……、気がした。

「ソンナニ見ナイデクダサイ、恥ズカシイ」

と、キラはあどけなく照れ笑って、小顔を手で隠す。

 携帯が自律神経を失ったように震えたのはその時だった。

鉄ママだ。

「はい、あゆむです」

写真 4

つづく

 

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浮惑なカモメ 第六話

第ニ章(3)

写真 1

チャイナタウン、香港路の精華飯店。

中二階の角にぽつんと丸テーブルが設けられている。

路地のネオンが映る窓際に落ち着いて、

玲子とぼくは小籠包を摘まんでいた。

「この路地のルービーレッド色が好きよ」

玲子がぽつりと呟く。

「ぼくは微かに聞こえる音も好きだ。羽虫が電灯に当たって痺れているようなやつ」

ああ、そうね同感、と、玲子は微笑した。

「ところで玲子はジェシカローズの解散ライブに行ったの?」

「ええ、天井桟敷で見たわ。あゆむは?」

「行ったよ。一階のスタンディング。」

「泣いた?」

一輪挿しのマーガレットが首を僅かに垂れて聞いている。

「泣いたよ。きみは?」

「泣かない」


メロディラインを先導するKATUYAの激しくも繊細なギター。

パフォーマンスを下支えするTAKAOのドラムビート。

そしてYURIの躍動と歌声。彼女はロリータフェイスで人気だが、力強く、

むしろ野太いとさえも評されるボイスで、

芯のある、独自のポップロックスタイルをクリエイトしてきたのだ。

アクションの一秒一秒がフラッシュバックのように流れていく。

ぼくの意識は、虚実と現実の境界をふらふらと漂っている感覚だ。


「つかんだものをすべて手放すより 壊してしまったほうがいいでしょ? 
最高のジュエルが指先から零れたら
砂漠の砂でイヤリングをプレゼントして」


 このリリックが好きだ。

 胸が熱くなった。

 上下左右、激しく身体を預ける群衆に押し潰されそうになりながら、

ぼくは直立して、静かな涙が溢れ出ることを止められなくなっていた。

「どうして泣くことができたの?」

「切ないからさ。ジェシカの生演奏はもう聞くことができないだろ?」

 ふーんと、玲子は物思いに沈んだ顔をする。

「ねえ、切ないって、知ってる? 言葉の由来を」

知らない。

「心が切れるほどの思い」という意味だと、玲子は淡々と続けた。

「彼女たちは過去にしがみつくことを拒んだ。産みだしてきた多くのヒット曲。

それらを演奏し続けなくてはならない束縛からの解放。

メンバーそれぞれが、バンド、つまり『集団』としてのヒストリーと、

『個』のビジョンを、未来に向けて繋ぐイメージを持つことができたんだわ」

だから、そこには断絶なんてものはないでしょ?

「未来に向いている人たちを見て、わたしは切ないとは感じない。
切ないと感じさせて、永遠にオーディンエスの余情を煽ろうというなら茶番ね」

「……」

ぼくは、小籠包の皮を箸で引き裂いた。淀んだ色の肉汁が小皿の中で広がった。

 そう言えば、今夜がぼくたちの最後の晩餐……、

「だっけ?」

「『最後』を強調する必要はないわ」

と、玲子は丸テーブルの縁に頬杖をついた。

 二番のサビの歌詞はこうだ。


「愛したものをすべて手放すより、恋してしまったほうがいいでしょ?
最後のファイルをしまう星のブックシェルフ、
たぶんあなたがまるごとくれたプレゼント ナノ」


 後奏が止む。

「ギター、KATUYA! ドラム、TAKAO!」

 YURIがバンドメンバー一人ひとりを紹介する。

 そして最後に自分の名前を告げると、深々と頭を下げてそのまま膝から崩れ落ちた。

 YURIは嗚咽している。熱の溜まったステージを、漸次冷ましてく激涙。

 ジェシカローズというバンドは、この時永久に呼吸を止めた。


 精華飯店を後にして、北大路に出る。そこでぼくと玲子はタクシーを止めた。

「じゃあ、出してください」

と、運転手に告げると、車は静かに走り出す。

 大路の路傍もまた、赤橙だの、萌黄色だのに染まっている。

ネオンサインから離れて浮遊しているような、色だけの亡霊たち。

「ところでお客様、どちらまで?」

運転手は尋ねた。

「さてどこへ行こう?」

玲子はずっと黙っている。

「ああ、そうか……。」

二人で帰る場所はもう無いのだっけ。

「……」

 玲子はやっぱり黙っている。

 突然、

「わー!! お客様、あれ、あれを見て!」

 運転手が指を差した。

「あー!」

 するとなんだ。夜空の真ん中に、

そこだけ宇宙の端っこと繋がっているかのように茫漠とした光の穴がぽっかりと開いているのだ。

さらにその中心には、北斗七星が燦然と輝いている。 

「あれはいったい……」

 驚きと気味の悪さのあまり血の気が失せていく。

「ねえ……」

気だるそうに車窓にもたれたまま、玲子がつんとぼくの袖を引いた。

なに?

「昔から星座に興味はないの。あなたに捨てられたわたしは、もう死にたいわ」



つづく

 

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。