浮惑なカモメ 第五話

第ニ章(2)

写真

 玲子と離婚して間もなく、ぼくは恵美と子供を引き取るため野毛に近い丘の上に

1LDKを契約した。

「都合がついたら、なるべく早く来て欲しい」

ぼくは恵美にアドレスを伝え、合鍵を渡した。

それから数日後、とつぜん恵美と連絡がつかなくなってしまった。

あれからもうすぐ二カ月が過ぎ……。


 煩わしくなって、結婚前から勤めていた仕事を辞める。

近頃は日がな布団を被っているか、男に弄ばれるかで、ようやく呼吸をしている。

 時々、湯船にしっぽりと浸かり、

夢に出たお爺ちゃんの言葉を思い出しては泣くこともあった。

 新しい暮らしが始まってから数週間のうちは、

頻繁に玲子からのメールも入っていたけれど今さら返しはしなかった。

 テレビやパソコンは置かなかった。

世間とずれ始めた自分が惨めになるのが嫌で、転居を期にぜんぶ棄ててしまった。

郵便は時々請求書の類が届いた。後はなかった。

 今日は梅雨の時期に珍しく晴れ渡っている。もう夏も近いのだ。

ぼくはカーテンを開け、窓を開いた。

爽やかな風が吹き込んで、それでまた悲しくなる。


 曇りや雨も悲しいが、晴れはいっそう悲しい。


 誰もが清々しいと、この空を仰いでいるだろうに。

健やかに汗をかき、笑顔の子供と手を繋ぎ、

「おはよう」と、仲間同士が声を掛け合っている。

幸せが陽光に溶けて注ぐイメージは、

ぼく独りだけを世界から除け者にした。


 悲しくて仕方がなかった。


 眼下には恵美と初めて出会い、いま男娼として働く街。

点々と置かれたマッチ箱のような建物は、ぼくの細胞そのものだ。

ぼくはうつらうつらと見下ろしてひたすら泣いた。

 ただ、何がそんなに悲しいのかは正直よくは分からない。

いまここにいるぼくのぜんぶは、自分自身が選んだ生の帰趨であることくらい、

はっきりとしているからだ。





  憂鬱のうたた寝に沈んだぼくは、

ずいぶん前に玲子と運んだコンサートの記憶とシンクロして奇妙な夢を見た。

「このライブ会場に来てくれた、一人ひとりに、あたしたちの最後のソウルを届けるよ」

 ボーカリストのYURIは息を整えながら絞り出す。

「今日、あたしたちのドラマが終わる」

この静寂は濁りのない水。ぼくたちの吐く息が無数の泡となって天井の闇に消えていく。

「でも、あたしには見える」

 YURIは頭の遥か上の方にある何かにすがりついて訴えるようだ。

「見つけたんだよ、あしたの光を。なあ、オーディエンス!! あなたたちにも見えるでしょ!?」

宇宙に放出する熱線のように、あるだけのエネルギーを込めてシャウトした。

YURIは色白で細くて、小柄だ。その灯火が一見して青白く仄かであっても、

ひとたびステージに上るとどんなパッションをも凌駕するほどに、

爆発寸前のエネルギーを貯めこんだ存在感が累乗して巨大化していく。

「YURI!」

 聴衆は無意識のうちに、彼女というブラックホールに牽き込まれてしまう。

「忘れないよ!」

「おれにも見えるぞ!!」

その泡泡は、鮮やかなジェリービーンズみたいに色を変え、

パッと散らばって、あっという間に空中で霧散した。

「じゃあ、やるぞラストの曲!」

ギタリストのKATUYAが気合い十分に絶叫した。

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

第 1話   第 2話   第 3話   第 4話   第 5話
第 6話   第 7話   第 8話   第 9話   第10話
第11話   第12話   第13話   第14話   第15話  

LINEで送る


浮惑なカモメ 第四話

第ニ章(1)

 

__ 3

 

 桜木町駅前の雑居ビルにクイックマッサージ店がオープンして、

立て看板にチラシが差してあった。まだ刷り上がったばかりだろうが、

梅雨終わり頃の漫ろ雨に濡れてよたっている。

その束ごと、いらっしゃいませ、と、お辞儀をしているみたいに。

 はじめて恵美と出会った野毛のバス停のあたりで傘を閉じた。

雲の間から束の間の陽が差している。

そこにだけ絵具を零したように、黄色く滲んでいる。

傘の先で水溜りをつつくと水紋が幾重にも口を開けて、

戯れの歌が聞こえてくるようだ。「ばーか、ばーか、ばーか、ばーか……」って。

 

 

  大岡川にかかる都橋に着くと、彼は欄干に肘をついて濁った水面を見つめていた。

「汪さん」

 ぼくも傍らに肘をつき、何かいる? と尋ねた。

「キタナイネ」

 ずっと雨が降っているからだ。

「上海ノ水モ、キタナイダヨ」

「そう……。ごめんなさい、ぼく行ったことがないんで」

「気ニシナイデイイヨ」

 汪さんは気さくに頬を緩めて、ぼくの肩に固い腕を回した。

「イキマショウ」

 ぼくは黙って頷く。

 雑居ビルの中に汪さんのオフィスがある。

オフィスといっても彼が日常生活を送っている場所だから、

独り住まいのぼくの部屋と様相に変わりはない。

シンクに溜まった食器、折り重ねてある下着、

戸の開いたクローゼットからあふれ出んばかりのジャケットやシャツ。

ただ違うのは、中国に残してきた妻子の写真が立ててあることと、

ゲイポルノの雑誌やDVDが無造作に散らばっていることだった。

中国人女性のスナックや違法風俗店を経営している彼にとって、

昼のこの時間帯は余裕があるらしい。

頻繁に男を連れ込んでは、性欲を処理する玩具として遊んでいる。

「何カ、ノム?」

 汪さんはぼくをソファーにかけさせて、キッチンでごそごそとやっている。

「いや、いいです」

「ピーナッツ、アルヨ」

 数日前、福建省出の女性から土産にもらったのだと。

小皿に盛ったピーナッツの乾いた種皮さえ、この部屋の湿気でしんなりしている気がする。

「ありがとう。でも、いい」

 ぼくは、小首を振った。

「キライ?」

 いや。なんにも入れたくないだけ。

 汪さんはベルトを外して、ズボンをおもむろに下ろす。

「サワッテ」

 ぼくは、何も答えずに汪さんの股間をゆっくりと摩った。

こいつがジメジメした感じの源に違いない、ぼくはそう思うとちょっと可笑しくなった。

「何オカシイ?」

 ううん。

「もう大きくなってますね」

「サッキカラ、我慢ハデキナイ」

 これで三度目だけど、まだ慣れない。

男を相手にすること。

「ナメテ」

 ぼくは、汪さんのパンツを脱がして反り上がったペニスを口にする。

「ウン、イイヨ、アユムクン」

 舌先を亀頭から睾丸まで這わせ、またゆっくり舐め上げていく。

 汪さんのアレにすっかり彼の全身の血が集中してしまうと、

彼はぼくを横向きに寝かせた。ぼくは銜えたまま離さない。

彼は、ぼくのGパンを手繰り下ろし、ぼくのあそこをくにゃくにゃと触り始めた。

「アナタ、マダ元気ナイネ」

 ぼくは応えず、汪さんを早くイカせて一秒でも早く終わらせたい一心で、

棒をしゃぶり続けた。

「ソンナニ乱暴ジャ、イカナイダヨ」

 汪さんはそそり立ったままのペニスを口から引き抜いて、ぼくの顔の上に跨った。

「くるちい……」

 脂汗をかいて目に沁みた。汪さんの股間はツンとアンモニアの匂いもしたけど、

そんなことよりもこの体勢のままじゃ事が終わらないことに急く。

見上げると仁王面の汪さんが嬉々と高ぶっている。

「今日ハ、ファックシテイイカ?」

 エッ?

凍りつくのが分かる。

「ヘヘヘ」

 下衆な半笑い浮かべる彼を見つめる。

「恵美、恵美……」心根では恵美の名を呼び続けている。

 と、その次の瞬間、尾てい骨の内側から引き裂かれるような痛みが走り、

全身がビリッと痺れた。

灰色の雲が頭の中いっぱいに充満して、ぼくはその向こう側にもがき苦しんでいる恵美の嘆息を感じた。

「恵美、恵美……」

それは恵美と同じ痛みを知った刹那だった。

 ぼくは、恵美と同じ闇に下った。

 薄ら目で、サイドボードに据えた写真立をゆらゆらと捉えると、

汪さんの幼子が無邪気に手を振っていた。

 

 

 

  ぼくは代金の二万を渡されて小鉄に向かう。

まだ明るい野毛小路、よたよたと足を引き摺りながら。

「マタ、金曜日ニ来ナサイ」

 去り際に汪さんに肩を抱かれて、こめかみのあたりに生ぬるいキスをされた。

 もう二度とごめんだ。鳥肌は立ったが、結局愛想笑いを浮かべてくたびれた握手を交わす。

「まだケツの穴が痛い……」

 ぼくは、スナック小鉄の鉄ママにそう零した。

 ママは、「すぐ慣れるわよ」と一笑に付し、

「はいじゃあ、これね。御苦労さま」

と、ぼくに半分の賃金と、テキーラのショットを差し出した。

「あたしの相手もしてくれたら、こっちの一枚もあげちゃうんだけどな」

「ごめんなさい」

ぼくは頭を下げた。

「金のためじゃないんで」

 ママは、フンッと気味の悪いすね方をして、可愛くない子、って悪態をついた。

「……」

 テキーラが喉を焼く。

このまま全身を焼き尽してくれないだろうか。

 ママはカラオケのモニターを消して、CDをプレイヤーに置く。

 

― ひとり酒場で飲む酒は 別れ涙の味がする。飲んで棄てたい面影が 飲めばグラスにまた浮かぶ ―

 

「やっぱりいいわよねえ、ひばりちゃん」

「……」

「あゆむちゃん、あんたねえ、男に興味もない、金にも執着がない。 それで身体売ってたら、じき壊れるわよ」

「……」

 ぼくは黙って店を出た。

 (つづく

 

by ケイ_大人

 

第 1話   第 2話   第 3話   第 4話   第 5話
第 6話   第 7話   第 8話   第 9話   第10話
第11話   第12話   第13話   第14話   第15話  

LINEで送る


浮惑なカモメ 第三話

第一章(3)

__ 1

ぼくの片腕を架けて、ナントカ豆のツルが虚空の彼方まで伸びていく。

日本列島も地球も、どんどん小さくなっていく。

太陽系も銀河系も抜けて、

いくたびの闇と光の連続を超えて、

やがて光だけの世界になる。

そこには幼い日のぼくがいた。

光が和らぐと、十数年前に逝ったお爺ちゃんと並んで腰を掛けている。

海原を臨む小高い丘の上、空は曇っていた。

「お爺ちゃんは、ここでなにをしているの?」

「待ってるのさ」

「なにを?」

「なにも……。ただ待つということをしているんだよ」

ふーん。

「これからどうなるのかはね、
どうもあらかじめ何もかもが決まっているらしいんだな。
だから行き先を期待しちゃあいかん。悲観してもいかん。
そのうち目の前に扉が現れて、さあ行っておいでって戸が開くだけ。
そうしたらね、その時はじめて自分が何を待っていたのかが分かる」

「……」

「ただね、その時爺ちゃんはもう、あゆむの爺ちゃんじゃない姿をしているんだが、

また あゆむのそばに生まれたいなあ」

と、お爺ちゃんは白髪頭を掻いた。

ぼくは黙っていた。

お爺ちゃんは慌てて、あゆむにはまだ難しいお話だね、

と、ぼくの頭を優しくなでた。大きいけれど、重さの感じない手だった。

「今度の爺ちゃんは、あゆむの子供になるのかもしれないぞ」

ぼくはその台詞にも答えなかった。

「あっ、しかし、あやむが喰らう玉子焼きの卵になるかもしれんが……」

お爺ちゃんは自分勝手にクスクスと笑った。

すると、ぼくは急に悲しくなって、ワッと泣き出してしまった。

お爺ちゃんも笑うのをやめて、泣き出してしまった。

二人はしばらく泣いていた。

気がつくと、幼い日のぼくは 今のぼくに姿を変えて、

体を丸めたお爺ちゃんの肩をしっかり支えている。

「もう泣かないでよ、お爺ちゃん」

お爺ちゃんは、苦しそうに おいおいと泣きじゃくる。

鼻水を垂らし、それがすぐに乾いて、粉になって風に飛んだ。

「ねえ……、 お爺ちゃん、ぼくの決断は間違いではないんでしょ?」

お爺ちゃんは 涙を拭って、じっと水平線を見つめた。


「戸が開く日を待ってみないとな」


「えっ? それがお爺ちゃんの答え?」

お爺ちゃんは、ぼくの顔を見上げて、キッと目を合わせる。

「いいかい、あゆむ。これは生きているものも、死んでいるものも、
みな同じことなんだ」
と。

それから、「男の子だろう」って、ぼくの左の頬をきつく揺すった。

「爺ちゃんは、いつも あゆむ君のそばにいる。だから、ね、もうここに来ちゃいけないよ」

お爺ちゃんの手の温度は、とても冷たかった。






手元灯りの眩しさを感じて夢から覚めると恵美はいなかった。

シーツのしわがまだ温もりを蓄えていたけれど、

安物パウダーの香だけを残して、

愛しい女の躰はもうどこかに消えてしまっていた。


辺りの陰影に溶けてしまったみたい、と、ぼくは重たい瞼を擦って考える。

「あゆむ、客が入ったから先に出る」

色々と考えを巡らす必要もなかった。

メールの着信を知らせる、仄かに青光の点滅を繰り返す携帯をひっ掴んで、

そんな淡白な一文を指先でなぞる。

ぼくが恵美のために犠牲にしたこと。

恵美がぼくのために犠牲にするもの。

「釣り合っているのか?」

と、ぼくは独り言を呟いた。

つづく

 

by ケイ_大人

 

第 1話   第 2話   第 3話   第 4話   第 5話
第 6話   第 7話   第 8話   第 9話   第10話
第11話   第12話   第13話   第14話   第15話  

LINEで送る


浮惑なカモメ 第二話

第一章 (2)

img_575097_37369402_0


妻とこんなやり取りをしてから、ちょうどひと月がたつ。

玲子が先に荷物をまとめて出て、ぼくは独りきり、

二人で探して選んだこの部屋を片付けてきた。

そして今日。ようやく空っぽになって、

穏やかに暮らしていた頃のぼくたちの幻影が、

たいして汚れてもいない壁紙に映って見える。

ぼくは、泣くつもりだったので泣いた。

涙さえ流せない別れは、二人を包容してくれたこの場所に失礼だと、

なんだかしょんぼりしていたからだ。

あとは、昼前に役所で玲子と落ち合い、届け出を済ます。

元町のカフェに移動して、

「さようなら」の乾杯をする。コーヒーで。

すべては予定表どおりに過ぎていく。

淡々と。

機械的にこなしていかなければ、言い得ない感情に押し潰されてしまう。

「スニーカーがほしいの。パンプスは捨てて」

これからたくさん歩きたいのだと、玲子は前を向く。

「じゃあ靴屋までつきあうよ」

「もう少し手をつないでいてくれるの?」

うん。そこで別れよう、と、ぼくは返した。

玲子の手は冷たくて、震えている。

五月の暖かい午後だというのに、冷たくて、震えている。

いく年月も、ぼくらはたくさんの道を歩いてきた。

手を取り合って歩いてきた。

最後の横断歩道。

最後の曲がり角。

最後の玲子のぬくもり。

長い道の終わりが、こんなに短くて、こんなに感覚のない場所だって、

今まで想像できたはずもなかった。

「元気でね」

最後くらいもうちょっと気の利いた台詞はないものか。 

「あゆむもね」

ぼくらは繋いだ手をほどく。

二人に今さら「どうして?」はない。

他に別れの言葉もいらない。

そんな気分は、きっと玲子も同じだろうな、と、ぼくは察した。

時を置かず、特売が連呼される賑やかな店内に、彼女は消えていく。

もう路傍で待つことはない。緩やかに風が吹く。

人ごみも、喧騒も、新緑の季節に似合わない枯葉のようで、

笑顔の親子連れは、レリーフのように固まって見える。

ぼくは、とめどもなく湧き起こる様々な感情や淡い記憶を振り落としたくって、駆けだした。

いまさら心の内を形容する言葉を駆使して、

灰色でささくれた気持ちのひだを表現したところで何になる。

ひとたび牙を剥いたぼくの中の悪獣に、憐憫の情を手向けるほど馬鹿馬鹿しい話はない。

人として本来持つべき情を殺す。

「節操なし、節操なし!」とただ唇を強く噛みながら、

ぼくは恵美の待つホテルに急いだ。




恵美はセックスが好きだ。

上に乗って、 自分のリズムで腰を振るのが好きだ。

ぼくが果てても、おざなりにぼくのモノを口に含んでこすると、

すぐにまたがって、入れてほしがった。

「ねぇ、あゆむ……ずっと うちといっしょにいる? 傍にいてくれる?」

恵美は、乳房の向こうから見下ろしてそう尋ねる。

「もう、うちだけのものなんだから……」

お願い、中に出して! と。

「ああ、ああ、いく!」

快感に顔を歪めたその瞬間、恵美は力なくしな垂れかかってきた。

二人の熱い呼吸が互い違いに重なり合う。

「なあ恵美。ぼくにはもうお前だけなんだよ」

と、掻き乱れた頭を抱いた。

恵美の汗が唇に触れ、漁るようにしてもう一度恵美と舌を絡ませる。

「いつ仕事から足を洗えるんだ?」

「……」

 その問いかけに、恵美は表情を濁らせた。代わりに、

「うちが奥さんよりも幸せにしてあげるから」

と、ジャムのように甘い言葉を塗りつけて、細かいキスで何度もつつく。

授乳を済ませてつんと立った乳首も、家事で乾いた手の表情も、

それでいてまだ瑞々しい肌も、火照った赤い頬も。

やはり愛おしいものは愛おしい。

そのすべてが、ぼくの火を灯し消えることはない。

きっといつまでも……。

きっとそうだ。そうに決まっている。

ぼくの選んだ場所は間違ってなんかない。

恵美の寝息を耳元に聞きながら、まどろんだ。

つづく

 

by ケイ_大人

 

 

第 1話   第 2話   第 3話   第 4話   第 5話
第 6話   第 7話   第 8話   第 9話   第10話
第11話   第12話   第13話   第14話   第15話  

LINEで送る


浮惑なカモメ 第一話

第一章 (1)

image0001


「怖いよ。あゆむがいない日はなかったんだよ」

嗚咽して震える玲子を前にして、ぼくはじっと俯くしかなかった。

眠たげにリビングを見下ろす鳩時計が、カチカチと張り詰めた空気を刻んでいる。

「こんなに長い間いっしょにいたんだよ。あたしのことは可哀想じゃないの?」

「……」

「ねぇ……、答えてよ」

アウトレットモールで買ってきたピンクのランチマットに水溜りができそうだ。

玲子の涙がテーブルにぽたぽたと落ちている。

重たい頭を細くて白い両腕がようやく支えていて、

しなやかな指と指の間に柔らかい髪の毛がずるずると巻き込まれていく。 

ぼくは、一言ずつ言葉を選んで絞り出す。

玲子が十九で、 ぼくは二十のときに将来を誓い、

互いの存在は青春の輝きそのものだったということ。

幾度のすれ違いを乗り越えて、籍を入れるまでに五年もかかってしまい、

入籍が単に通過儀礼的になってしまったこと。

「そんな評論家みたいにゆわないでほしい。あたしだって……」

冷静にぼくらの成り行きを語ることくらい簡単だろう。

「結婚してからの三年間、あゆむのことだけを思って頑張った。
料理も覚えた、二人で働いて、お金も貯めて、旅行も企画して……」

きみは最高に素晴らしいパートナーだ。

「ねえ、恵美って子が、そんなに好きなの? あたしじゃもうダメなの?」

 


恵美と はじめて出会ったのは、一年前。

秋風が寒い夕方の野毛通りだった。

たしかその時、老夫婦が停留所でバスを待っていた。

その傍らで、ぼくは佇んでいた。

「遅いわねえ」

老婦人のつぶやきに軽く相槌を打っておく。

ほどなく、遠くの赤信号の下にバスの行き先表示板が現れた。

「すっかり冷えてしまったわ」と、ぼやきぼやき手の甲を摩っているが、

この婦人の皮肉調はいったい誰に向けられたものなのか、と、ぼくは首をかしげた。

どうでもいいことなんだが、そんなことでも考えていなければ、

妻への罪悪感を紛らわすことができないのを畏れている。

これから名も知らない男が、名も知らない女を連れてくる。

金を払って夢を見ようというのに、うつつに返っているのなら野暮ってもんじゃじゃないか。

今頃、玲子は帰宅ラッシュの渦に呑みこまれているだろうし、

汚くて臭い人ごみに押しつぶされそうになるのを必死に耐えながら晩の献立でも考えているのだろう。

 

「あら、お兄さんは乗らないの?」

上品な問いかけだったが、ぼくはもう何も答えなかった。

この期に及んでまでそんなことを想って後ろ髪を引かれている自分が優柔不断で情けなかったからだ。

 


夫婦を乗せたバスが行ってしまって、足元から長く伸びた自分の影を遠い目で見つめている。

「あのう……、お待たせしました」

突然ぼくの影に、二人の影が浸食した。

「マイさんです」

牛売りってこういうものかもしれない。 ぼくは名も知らない男に礼を渡す。

売られる雌牛は悲しい目をしていた。

けれど牛ではない。女だ。

上気した。と同時に、これは切なさの沁みる買い物だと学んだ。

「よろしく」

マイは目を合わすことなく、ぼくの手を取る。

早くここから離れようよと、力を込めた。

「ぼくはこういう遊びが初めてで、勝手がよく……」

 マイはそれには何も答えずに手を引いた。掌は冷えていた。柔らかくて渇いていた。

ぼくは玲子の手の瑞々しさを想う。 

バス通りから二辻ほど奥。その場所は、この女を抱くために用意されている。

でも、そこは目的地ではなかった。今から思えば、ラビリンスへの入り口だったんだ。

「マイさん……といったよね?」

「ううん」

「……?」

「うちの名前は恵美だよ」

ぼそぼそと否定するから、余計に横顔が陰って見えた。

でも、その頬は紅潮している。

ぼくの目は恵美の赤らみを間違いなく捉えたのだ。

この女は緊張しているのか、恥ずかしがっているのか、それともぼくを一目で気に入ったのか、

なんにしても経験を重ねた娼婦とはこの時露も察すことなどできなかったわけで、

初心な女の身悶えを妄想してぼくはすでに勃起していた。




 

「あたしは……、あたしは……」

玲子の頬は渇く暇もなく、何か言葉を継ごうすればそれがすぐ灰になって落ちてしまうのを嫌うよう
に言い淀んだ。

「ごめん」

 と、ぼくはもう何度も謝っている。

「玲子を愛してるよ。そして、ぼくが愛されているのもちゃんと分かっている。

でも何かがぼくらには欠けている」

ぼくはきみにダイヤモンドをプレゼントしたけれど、それ以上のものはあげられなかった。

きみはバカンスの企画を立ててくれたけど、ぼくはきみとこの部屋でセックスがしたかった。

きみが誘う時、ぼくは背を向けて、ぼくがしたい時、きみが背を向けた。

いつのまにか互いが幸せの価値をバラバラに抱き始めてしまっていた。

いや、それは結婚する以前、もうずいぶんと前からとうに分かっていたことなんだけど、

結婚という一つの型になんとか収められていくだろう、って。

「玲子と恵美を比べたりはできないよ」

玲子がもっと幸せになるため、ぼくがもっと自分らしくいるため。

「そんなの!」

綺麗ごとだろうと、玲子は声を荒げる。

 その刹那、緩慢な鳩が、申し訳なさそうに十二回鳴いた。

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

第 1話   第 2話   第 3話   第 4話   第 5話
第 6話   第 7話   第 8話   第 9話   第10話
第11話   第12話   第13話   第14話   第15話  

LINEで送る


秘恋物語 (後篇)

img_1496319_28706840_1

「彼」が結婚すると聞いたのは、暮れに盛岡に帰った時だった。

駅まで迎えに来てくれた「彼」の車に、似合わない柄モノのクッションが揃えられている。

それを見て、まず切り出したのは、あたしだった。

「彼女できた?」

まあね、と「彼」はあまり嬉しくなさそうだ。

聞けば、十一月に親戚の世話で見合いをしたのだと。

「まあ、おれも三十だし、そろそろあれだしな。」

「ねえ、あたし彼女と会える?」

「えっ?」

なんか会わせたくないと「彼」はボソリと吐いた。

車は都南大橋に差し掛かり、北上川を渡る。

もうすぐ生まれ故郷のわが家だ。

橋の半ばで、「彼」はおもむろに車を停めた。

「ちい、兄ちゃん彼女と結婚するぞ。」

その時、あたしの中で冷えた感覚がもっそり動いた。

川面に揺れる冬の夕日が寒々しい。

「もう『あのこと』は忘れていいよな。」

「…。」

「でも、おれが、ちいの兄貴だってことは変わらない。

どんな時でもお前のことを一番に心配するのはおれだ。

ちい、もう水商売なんか辞めて幸せになれ。」

うるさい。東京のあたしは不幸じゃない。幸せだ。

あたしはそんな気持ちで静かに反抗した。

「この橋から毎年花火見たよな。母さんと、じいちゃんと。」

そうね…。そういうことを持ち出されると、さすがにちくりと痛い感じがする。

「お兄ちゃん、おめでとね。」

「彼」は「ありがと」と返した。

「あたしたち、前を向いていこうよ。そうするしかないもん。」

「…。」

「彼」は黙ってエンジンをかけた。

春になって、「彼」の縁談がうまくいかなかったって、母からのメールが入った。

「理由は分からないけど、けい君の方がやっぱり断りたいって。」

あたしはそのメールさえ黙殺した。

 

店のボーイをしているあっくんとこっそり付き合い始めたばかりで、

家族の話題など「自然と」圏外にしていた。

けど、『あのこと』に繋がる故郷の欠片たちは、

まるごと消しゴムで消してしまいたかったから、「自然と」というのは少し違うかもしれない。

「彼」も、お母さんも、北上川も、大橋も、花火も…。

なにもかもが、「彼」とあたしがセックスをした一夜にどうしても繋がってしまう。

「犯されたの。」

あっくんにはそう打ち明けた。

でも嘘。やさしいあっくんだけど、本当のことはどうしても怖くて告白できない。

鋭いあっくんだから、もう分かってるんだろうけど…。

高一の夏。花火の夜。「彼」の部屋で、あたしの方からお兄ちゃんを求めたこと。

それがあたしの初体験だったこと。


 

 八月一六日、あたしのたった一人のお兄ちゃんが逝ってしまった。突然だった。

「今年のお盆は帰らないよ。」

文字だけの素っ気ないやつだったけど、

亡くなる三日前に久しぶりにあたし側からお兄ちゃんに送ったメール。

その返信は結局来ることがなかった。


あたし、今さら思う。お兄ちゃんのことを忘れたくないよって。

けど、お兄ちゃんは忘れてほしいからいなくなったのかな…。

納棺師の人にお願いして、処置が終わったお兄ちゃんと二人きりにしてもらう。

耳からあごの下くらいにかけては紫色になっていた。

けれど、あたしの知っている優しい顔はそのままで、風邪でもひいて眠っているだけのようだった。


「キスしていい?」

「いいよ。だけどな…。」

ちい、これでお別れだよって、答えてくれた気がする。

それは、生涯二度目のお兄ちゃんとの口づけだった。

(了)

by ケイ_大人

LINEで送る


秘恋物語 (前篇)

mangetu02

満月を見てると悲しくなって、あっくんに今日はセックスしたいとゆったら、

「ちい、僕はお兄さんじゃないよ。」

だって。カレシは背中を丸めて毛布を被る。

そんなつもりはないけど。

あたしの中の深海底では、そんなつもりかもしれないけど…。


「でもさ…」

それ以上言葉を繋ぐことも面どくなくって、あたしは左手の親指を強く噛んだ。

「明日な…。」

あっくんは、酷い。冷たい。いや、やっぱりそんなことはない。優しい。

あたしの三日月からまたショッパイのが零れてきて、あっくんの肩越しでこっそり拭いた。




前の満月の晩、お兄ちゃんが首をつって死んだ。

酒が残る独り寝の朝、あたしの携帯が何度も震える。

眠り目を擦ると、「おかあさん」のサイン。

二度は無視した。今じゃそのことさえ後悔しているの。

三度目に携帯がぶるった時、「もう朝っぱらから何だよっ」

て母を憎んだあたしはまったく馬鹿だ。

「ちいちゃん、ちいちゃん、けい君が死んじゃった。」

あとのことは聞こえなかった。っていうか覚えていないというか。

〈夢だと思った〉とか、そんな使い古された慣用句じゃピンとこない感覚で。





盛岡から上京してからすぐの頃は、

あたしはお兄ちゃんと毎日のように電話かメールを交わしていた。

サークルの先輩にふられて一晩中泣いた夜、お兄ちゃんが朝まで電話に付き合ってくれた。

「可愛い妹を泣かす奴は許さん。」

2、3日して、そんなメッセージを添えた一ダースの白桃が届いていた。

短大の寮母さんにお裾分けに上がったら、

「いいお兄さんね。」

と、持ち上げられる。

「お兄ちゃんは、農協で働いているので。」

まとの外れた受け答え… けど思わず出たのがそんな感じのコトだったと記憶している。

「お兄ちゃんは、あたしのことが大好きなんです。」

なんて、ゆえるわけない。






キャバクラに入店したての頃は、喧嘩ばかりだった。

カレシのように怒るし、電話越しに泣かれたこともある。

都会でいろんな男と寝て、お金やブランド物をもらったりしていくうち、

あたしは、だんだん田舎者のお兄ちゃんのことがウザくなってきていた。

「兄妹いるの?」とか客に尋ねられると、平然と「いない」と答えたこともある。

友達との会話でお兄ちゃんの話題になると、「彼」とか「あの男」とか三人称の呼び方も、

いつのまに「お兄ちゃん」からずいぶん変わってしまった。
 
やがて、「彼」の電話には無視を決めるようになり、メールの返事は出さなくなっていた。

つづき

by ケイ_大人

LINEで送る


馬鹿ぼんど 第十話(最終話)

やがて冬が来た。

 ダレルを相談所に捕られてから、フィリックスの厚意は寄せられなくなってしまった。

まあ当然か。

「子供に暴力、キミは最低デス!」と罵られた。

あれから何度か児童相談所に通いはしたけれど、終に中上さんと折り合いはつかなかった。

そのうちにフィリックスから、「クリスマスまでにダレルの親権を渡してほしい」って、

申し立てられる。

わたしの方にあんまり粘る気持ちもなかったから、意外とすんなり調停は成立したわ。

でもね、なんだかすっきりしたの。

子供を育てるってゆう肩の荷が下りた。

フィリックスの千里眼のような視界から逃れて、厚情も憐れみも注がれない、

本当の自由を獲得した。

わたしの本当の旅はここから始まる。

 

 次の春。

フィリックスと別れてから一年が過ぎようとしている。

御向いの元は占師がいたテナントに、新しい種が根を下ろした。

チャールズってゆうアメリカ人のキルト職人。

カンディンスキーの抽象画みたいに、雄々しくも繊細な模様の布に仕上げていく彼。

途方もない時間をかけコツコツと指し縫いするその姿を、

わたしは日がなぼんやり眺めて過ごすのが好きだ。

「ねえ」

「……?」

「その作品も素敵。チャールズの優しさが出てる。元気になるなあ」

 

 まだ23歳のチャールズは、邪気のない笑みを浮かべる。

アメリカ人とゆっても、お母さんは日本人とのハーフらしい。

彼の表情にどこか馴染みやすさがあるのは、そうゆうわけかしら。

「これはオーストラリアを旅した時の風景をイメージして。風と太陽、牧場(まきば)に腰を下ろす少年と羊……」

 わたしは、風の中に立つ。

草を頬張る羊と目が合っている。

蠅がプーンと飛び過ぎていく。

「お前は馬鹿やなあ」

眠たそうな羊の瞳がわたしを蔑んだ。

「咲恵?」

「……あっ、ごめん」

  ぼうっとしてた。

「そう……」

と、チャールズは再び視線を落として、キルトの草原に針を立てていく。

「ねえチャールズ、オーストラリアに行ったことがあるなら、エアーズロックには行った?」

 わたしね、あそこに一度行ってみたいの。

ねえ、わたしの声が少し弾んでいるのに、あなたは気付いてる?

「ない」

 なのに、あまり興味がないんだって……。

「僕は人間が好きだから……。あそこは僕たちには大きすぎる。大きすぎて、怖くなってしまうよ、きっと」

 小さな虫を踏んで悔やんだり、魚を焼く匂いに腹を鳴らしたり、恋人に毎日会いたいと思ったり、

僕はそういうちっぽけな人間の営みにしか興味がないから、と。

 

「一緒にエアーズロックに行けたらいいなあ、って思ったのに」

 ちょっと不貞腐れぶってみる。

「ええ?」

 チャールズはそう応えながら、薄く笑った。

「僕は仕事が忙しいよ。咲恵も一生懸命仕事をした方がいい」

「やっぱり馬鹿やなあ」

羊が “ヴメェ ”と鳴いた。

「お姉さんの肩に蝶がとまっているよ」

 純情そうな牧童が可愛らしく表情を緩めて近づいて来る。

「咲恵、お客さんだよ」

と、チャールズがわたしの肩越しに手を向けた。

 えっ?

振り向いたら、わたしの店の前に羊みたいな顔の男の人と、羊飼いの子供じゃなくて……。

「中上さん?」

ライトピンクのシャツをふわりと纏い、細い踝(くるぶし)を魅せるモカ色のサブリナパンツ。

児童相談所の彼女とは明らかに違って、すごく垢ぬけているんだけれど。

「ねえ中上さん?」

 改めて彼女に声をかけた。

 するとその子はキョトンとして、

「いや、違いますけど」

と、はにかんだ。

 羊男の方は、わたしの勘違いが大いに間抜けと映ったらしく、口を縦に開けて笑ってた。

「もう行こう」

って、彼女の手を取って、二人はとば口に踵(きびす)を返してしまった。

 見えなくなる廊下の曲がり角で、あの子は一度だけ振り向いた。

 

 独り住まいの部屋に帰ると淋しいから、ラジオをつけっぱなしで出ていくの。

 いつでも経てるようにと、スーツケースの旅支度は済んでいる。

 なのにどうしてだろう?

 チケットを手配する気持ちが起こらない。

 旅路を描く地図は、まだ用意できていない。


「出会った人間と別れるのが嫌? 別れなくてもいいような人と仲良くなる?

そんな馬鹿なことを言う ばがぼんど なんていないよ。

第一、咲恵はもう沢山の別れを経験してきたんじゃないか?」


 この前、チャールズにそう笑われて、胸に刺さった、わたし。

でも、それでも、わたしはわたしの旅をしたい。

 床に就く前には、きまってスーツケースの中身を確かめている。

 そして、リビングルームのカレンダーは、まだ去年の七月のままなのだ。

 

 airs_rock3

(了)

by ケイ_大人

 

第一話   第二話   第三話   第四話   第五話  
第六話   第七話   第八話   第九話   第十話

 

LINEで送る


馬鹿ぼんど 第九話

spiral_metal

「八月にアロマテラピー業界の大規模な展示会を主催するんです。出てみませんか?」

 小里(おざと)と名乗る、愛想の良い若い男がそんな提案書を持ってうちの店を尋ねてきたのは、ダレルの七歳の誕生日だった。

涼しげな白の半袖シャツにエクルベージュのチノパンを合わせていて、

爽やかさと清潔感を漂わせている。

名刺には「ライフサイエンスプランニング株式会社 執行取締役」と。

「ライフサイ……小里……、もしかして、この前 詐欺で捕まった奴ですか!?」

と、銀眼鏡の奥の丸い目が、ギョロんと大きくひん剥かれた。

「中上さん知ってるんだ?」

「それ新聞で読みましたよ」

 会期五日間の展示ブース料として三十五万円を支払えば、

この業界内では確かな箔がつき、顔も広がります。

芸能人やマスコミもたくさん来るから知名度がかなり上がります。

過去平均すると一ブース辺りの売り上げは軽く百万を超えているから、

出展料など簡単にペイ出来てしまいます。

と、まあ、よくありがちなイイ話にまんまと引っ掛かったわたし。

「払ったんですか?」

「ええ、払ったわ」

「どうしてもっと慎重に……?」

 だってわたしには時間がなかったから。

「……」

アイアンブルーの溜息が面接室の床に溢れ落ち、

中上さんの足元まで流れて可愛らしいパンプスを呑込んだ。

べっとりとした恨めしさが溜息の後からじわあっと込み上げて来る。

胃がキュッとして、次の瞬間後頭部を捻(ひね)られた様な鈍い痛みに襲われた。

と、気が付いたら何もかもが顔から出ていってしまうように、激しく涙が溢れ出す。

あっ、わたし、泣く。

「なんであんなのに騙されたんだろう! どうして、わたしは、わたしは……」

 まったく世間知らずの馬鹿だ。

 バーチャルシュミレーターでは一丁前の旅人を気取れても、

リアルな世界では自分の靴紐も結べない稚児(ちご)じゃない。



「咲恵さん、藻掻けば藻掻くほど、

あなたの旅の意味が茫洋(ぼうよう)としてしまうことに気付いて?」

と、突っ伏すわたしを引っぱり起こすように問い掛ける。


「あなたがそうして手足を振り回す。

暴走するオールは何度となくダレル君に当たってしまった」


「ちがう! あれは躾です! わたしのストレスとは関係ない!」

「私はあなたの息子さんに対する愛情が希薄だとは思えない。
本当に薄らいでいたら、こうやってここに来ることもしない」

「だから返して下さい! わたしはダレルを愛しています。心から……心から……」

「躾をすることは親として当然です。
けれど、問題はそれを受け止める側の子供の気持ちなんです。
ダレル君は最近のあなたを怖いと感じていた。
だから、身体の痣(あざ)を学校の先生に問われた時泣き出してしまったのでしょ? 
子供が身の危険を感じて、シグナルを発し始めたら、そのこともきちんと受信して、
接し方を修正してあげるのがお母さんとしての務めなんですよ」  

「もういいから返して下さい……返して下さい!」

「返してほしいと言う言葉を、私に初めて叫んでいる御自分に気がついていますか?」

「わたしはあなたに負けてなんかない。わたしは母親の役割を果たそうとしているだけ!」

「咲恵さん……」

「……?」

「申し訳ないのだけれど、私は子供の人権を守る仕事をするものとして、
まだあなたにお子さんを返すことは出来ない」

「どうして?!」

と、わたしは身を捩って絞り出した。

「ダレル君を返してほしいっていう気持ちは、あなた自身がどう生きるかって問題と切り離して考えてください。
今は、あなたにとってのあるべき母親とか、女性とか、
そういう姿を体現しようとするのではなくて、
世界にたった独りしかいないダレル君の母親としてどうあるべきなのか、
御自分の心に問い直してほしい」

 わたしの中に、蛇腹状の冷たい金属みたいなのが埋まっていて、

不意にそいつがピンと伸び上がってくる。

ついでにその温度が、煙を上げていた脳天をクールダウンしてくれるような感覚。

流した涙と叫んだ声を掻き集めて元の場所に仕舞いたい。

そう思うと血の気も失せた。

「なんて様(ざま)を見せてしまったんだろう……わたし、もう帰ります。いいですか?」

 呟きでノックをするように、わたしは中上さんにお伺いを立ててみる。

(つづく

by ケイ_大人


第一話   第二話   第三話   第四話   第五話  
第六話   第七話   第八話   第九話   第十話  
LINEで送る


馬鹿ぼんど 第八話

IMG_2906

「咲恵、キミは家のお金、どれくらい使いマシタカ?」

フィリックスが青白く見えたのは、その時が初めてだった。

さすがにわたし、“まずい ”って悟る。

 

春の雨が降る朝だった。

それぞれが身支度を済ませ、もう出かけようとした矢先、

「話がありマス」と肩を叩かれる。

おもむろに彼がローテーブルの上に差し出したのは、貯金通帳……。

日本語の不自由な彼は、こうゆう類のものを一切合切持て余し、わたしに全て任せてきた。

「よく自分で調べてみマシタ。お金、四十八万しかない……」

 その声はかすかに震えている。その手もわずかに共振している。

 ここに記されたことを理解するのって、それほど難しかったわけじゃないでしょう?

けど、事実を受け止め、咀嚼(そしゃく)し、どうわたしにぶつけたらいいかって、

きっと、ずっと、あなたは悩んでいたはず。

 

「おかしいデス! ボクいっぱい働く。ダレル、エマ、そして咲恵のために。それ、キミの店のためじゃないデショ?」

 店を始める前は百五十万ほどあった我が家の蓄え。それがニ年半でもう三分の一以下。

 気付いてはいたけど、気にしないようにしていたの。

「このお金はキミだけのものじゃない。家族みんなのもの!」

「……ごめん……」

って、ゆうしかない。

 

 歩きだした私の旅。ひたすら前を見た。

裸足の足裏はボロボロに傷ついて、真っ赤な血で滲んでいたとゆうのに。

「もう……」

 わたしとは一緒に暮らせない、彼が絞り出す。

「……」

わたしは黙って受け入れた。

「なんで咲恵は “ごめんなさい ”って言わないのデス? なんで “これからは家族のために我慢します ”って言ってくれないのです?」

 フィリックスは大粒の涙を零し始めた。

 ガーナの星星の下でわたしが流したそれと、同じ、涙かもしれない。

 

 

 

「にわかに納得してしまったんですか?」

 中上さんの問いかけは責めるような語気を含んでいた。

「そうね」

 彼に許しを乞えば、この旅を引き返すような真似だと感じて。

「引き返してはいけなかったのでしょうか? 咲恵さんの商売はその時点で決して上手くいってはいなかった。

自分のお店を持つことを、あなたは “旅 ”だって表現するけど、その旅費はどこから出ていたんです?

家族じゃないですか? 甘えに依存した自立なんて、自立とは言えないわ」

「……」

 

 それでも、一度立ち止まって、旅の工程を練り直すことも、

あるいは旅を中断して家族のもとに戻ることも、わたしは選ばなかった。

 

「なぜ?」

 それは……。

やっぱり、好きじゃなかったから。

 

別れてみると、フィリックスの優しさが滲みることもあった。

「咲恵は女の子だから」

って、この春小学校に上がったばかりのダレルと、寄り添って暮らすことを許してくれた。

「お前は男の子だからママを守ってあげなさい」

と、息子に言いつけてくれた。

 店主として城を守ることの難しさを学びながら、

どうにか店は丸三年間持ちこたえることができた。

それでも、安定しない台所事情を察し、フィリックスは毎月ちゃんとお金をくれていた。

二人が困るといけないからって。

一応拒む姿勢は見せるけど、お金を受け取るとほっとする自分もいる。

「今月も助かっちゃった」って、正直思うの。

 だから、好きの感情は薄いけど、ダレルの父親として誇る気持ちはまだあった。

 わたしの旅はどこかに向かっているのでも、数マイル動いた、

でもなくって、実はずっと、男らしいフィリックスが用意してくれたバーチャルシュミレーターの中での出来事だったのかもしれない。

と、そんなことを考えたりすると惨めさが沸々と湧きあがって鬱っぽくなる。

 わたしは真に自立した企業家になりたいと思った。

 元夫の援助を乞わなくとも、女手で子供一人を育てるぐらい、わたしにだって出来るはずだ。

 代官山の木造アパート・六畳半の城で、いつまでもちまちまやってはいられない。

 わたしには時間がない。

(つづく)

by ケイ_大人


第一話   第二話   第三話   第四話   第五話  
第六話   第七話   第八話   第九話   第十話  



LINEで送る



自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。