馬鹿ぼんど 第七話

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自分の中にこさえて必死にしがみついていた一本の筋。

それが “恋愛→結婚 ”とゆう新芽を出して枝分かれしてゆく。

「もうここにはいないのよ」 見えない誰かの囁き。

あなたの耳にはそう聞こえ、あなたの口が「何がいないの?」と聞き返す。

すると誰かはまた教えてくれた。

「あなたの肉体はここにいても、あなたの心はもうずっと遠くの高い場所まで登っていってしまったのよ」

あなたは驚いて、ひたすら怖くなって掌に汗をかいた。

汗は小便のように臭い匂いを発して、ぎゅっと握りしめていたその幹を腐らせていく。

それでもまだ離さない手が、みるみるうちにその手から下の幹と緑葉を腐らせていく。

「結婚と仕事って、二者択一するようなもんでもないと思いますけど……」

それ戯言よ。

フェミニストが運動の旗印にするには、あまりにも分かりやすかったから。

「中上さん、女性のためのユートピアなんて信じるの?」

 

エ マを0歳保育に預ける余裕などはなかったでしょ。

彼女を抱きながら、“起業ハウツー ”を読み漁った、あの頃。

「『金』『見込み客』『熱意』。

そして何より『家族の理解』」 必要なものはこれで全部よ、

って、ある本は机を叩いて弁を揮っていた。

わたしは、「そうなんだあ」と軽薄に相槌を打ち、

「『熱意』なら四条件に入ってるけど、『資格』って書いてないなあ」と、

馬鹿な顔してエマに乳を飲ませて いた。 アロマテラピーショップのオーナー。

絵に餅を描いてるとき胸は弾むばかりだったけど、

現実はモチというより無知をさらしまくって苦しんだ。

イメージしていた街、わたしは代官山に手頃な物件を見つける。

木造築四十年のアパートを改装したSOHO型のテナント。

六畳半という手狭さは難だけど、敷 金、礼金1ヶ月ずつってのは魅力だ。

当時まだ二十五才になったばかりで、しかも専業主婦のわたしに、経済的余裕などあるわけない。

お隣にはオリジナルアクセサリーを売るアーティスト。

向かいでは若い占い師が「修行中」と書かれた札を提げている。

雑多な種が無秩序に蒔かれたような異空間。

「いつか旧山手通りあたりに路面の店を出したい」

とか熱く芽生えを語る種もあれば、

「大それたことは考えちゃい ないから」と小さくまとまろうとする種もある。

そこには様々な生き方がある。

わたしの芽の向きはまだ曖昧だったものの、

滞留し沈殿しかけている心の中の塊を、

ともかくこの刺激的な種どもがどうにかしてくれるにちがいない。

なんてゆうのは甘かった。

一銭も使わずに立ち去っていく客たちが来ると、“塩撒いてやりたい ”なんて傲慢な気持ちにもなった。

時々箍(たが)が緩んで、エマが燥(はしゃ)いじゃったりすると、

「幼子を置いて商売するなんて不見識だ」、そんな厭味 まで垂らして出ていくのだ。

それに、そういう輩に限って、アロマの専門的なことをダラダラと口上吹いていくもんだし。

三カ月目には、「本日都合によりお休み」と不規律で稚気な下げ札が、

「修行中」と殊勝なそれに向き合うことも屡(しばしば)。

釣銭を切らしていて、アクセサリー屋にいくらか貸してもらったことがあって、

そのことを二三日忘れて返さなかったら、

「常識がないっ!」 って、いつもは温和なその店主に、えらく冠を曲げられたこともあったわ。

 

 

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「突っ走ってしまったのね……起業することに」

男女同権の理想社会を信じるかどうか?

そのことへは終に答えず、中上さんは淀んだ表情を浮かべて問い返してきた。

「もちろん一応形式的なあれかもしれなかったけど、夫に相談はした」

「その時、フィリックスさんは何て?」

「主婦の遊びデス」 って。

「あなたは家の中にいて、子供たちを守りなさい。それが役目デス」 って。

それがうつろな縞馬みたいな眼球で訴えてくるし。

「わたし、ああ、もうウンザリ! って、ぶつけてやったの」

「あの……」

中上さんにケースワーカーとしての厳しい顔つきが戻る。

「自分勝手なこと言ってるなあ、とか、自戒とかはありませんでした?」

彼女がわざわざ我が身の愚痴を吐いて聞かせたのも、本心から慰みを受けようとしてたわけじゃない。

齢が程近く、形容し得ぬ親近感が湧いていたとしても、

わたしは子供虐待の疑いをかけられた忌むべき親失格者であり、

彼女はわたしに子供を返すかどうかの断を下せるケースワーカーなのだ。

その関係性を覆すほど、事は情緒的な心の棚引きに左右されたりはしない。

自分勝手? 自戒? 人として、それはそうだ。

「……自問自答しない日はなかったわ」

(つづく

by  ケイ_大人


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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。