馬鹿ぼんど 第十話(最終話)

やがて冬が来た。

 ダレルを相談所に捕られてから、フィリックスの厚意は寄せられなくなってしまった。

まあ当然か。

「子供に暴力、キミは最低デス!」と罵られた。

あれから何度か児童相談所に通いはしたけれど、終に中上さんと折り合いはつかなかった。

そのうちにフィリックスから、「クリスマスまでにダレルの親権を渡してほしい」って、

申し立てられる。

わたしの方にあんまり粘る気持ちもなかったから、意外とすんなり調停は成立したわ。

でもね、なんだかすっきりしたの。

子供を育てるってゆう肩の荷が下りた。

フィリックスの千里眼のような視界から逃れて、厚情も憐れみも注がれない、

本当の自由を獲得した。

わたしの本当の旅はここから始まる。

 

 次の春。

フィリックスと別れてから一年が過ぎようとしている。

御向いの元は占師がいたテナントに、新しい種が根を下ろした。

チャールズってゆうアメリカ人のキルト職人。

カンディンスキーの抽象画みたいに、雄々しくも繊細な模様の布に仕上げていく彼。

途方もない時間をかけコツコツと指し縫いするその姿を、

わたしは日がなぼんやり眺めて過ごすのが好きだ。

「ねえ」

「……?」

「その作品も素敵。チャールズの優しさが出てる。元気になるなあ」

 

 まだ23歳のチャールズは、邪気のない笑みを浮かべる。

アメリカ人とゆっても、お母さんは日本人とのハーフらしい。

彼の表情にどこか馴染みやすさがあるのは、そうゆうわけかしら。

「これはオーストラリアを旅した時の風景をイメージして。風と太陽、牧場(まきば)に腰を下ろす少年と羊……」

 わたしは、風の中に立つ。

草を頬張る羊と目が合っている。

蠅がプーンと飛び過ぎていく。

「お前は馬鹿やなあ」

眠たそうな羊の瞳がわたしを蔑んだ。

「咲恵?」

「……あっ、ごめん」

  ぼうっとしてた。

「そう……」

と、チャールズは再び視線を落として、キルトの草原に針を立てていく。

「ねえチャールズ、オーストラリアに行ったことがあるなら、エアーズロックには行った?」

 わたしね、あそこに一度行ってみたいの。

ねえ、わたしの声が少し弾んでいるのに、あなたは気付いてる?

「ない」

 なのに、あまり興味がないんだって……。

「僕は人間が好きだから……。あそこは僕たちには大きすぎる。大きすぎて、怖くなってしまうよ、きっと」

 小さな虫を踏んで悔やんだり、魚を焼く匂いに腹を鳴らしたり、恋人に毎日会いたいと思ったり、

僕はそういうちっぽけな人間の営みにしか興味がないから、と。

 

「一緒にエアーズロックに行けたらいいなあ、って思ったのに」

 ちょっと不貞腐れぶってみる。

「ええ?」

 チャールズはそう応えながら、薄く笑った。

「僕は仕事が忙しいよ。咲恵も一生懸命仕事をした方がいい」

「やっぱり馬鹿やなあ」

羊が “ヴメェ ”と鳴いた。

「お姉さんの肩に蝶がとまっているよ」

 純情そうな牧童が可愛らしく表情を緩めて近づいて来る。

「咲恵、お客さんだよ」

と、チャールズがわたしの肩越しに手を向けた。

 えっ?

振り向いたら、わたしの店の前に羊みたいな顔の男の人と、羊飼いの子供じゃなくて……。

「中上さん?」

ライトピンクのシャツをふわりと纏い、細い踝(くるぶし)を魅せるモカ色のサブリナパンツ。

児童相談所の彼女とは明らかに違って、すごく垢ぬけているんだけれど。

「ねえ中上さん?」

 改めて彼女に声をかけた。

 するとその子はキョトンとして、

「いや、違いますけど」

と、はにかんだ。

 羊男の方は、わたしの勘違いが大いに間抜けと映ったらしく、口を縦に開けて笑ってた。

「もう行こう」

って、彼女の手を取って、二人はとば口に踵(きびす)を返してしまった。

 見えなくなる廊下の曲がり角で、あの子は一度だけ振り向いた。

 

 独り住まいの部屋に帰ると淋しいから、ラジオをつけっぱなしで出ていくの。

 いつでも経てるようにと、スーツケースの旅支度は済んでいる。

 なのにどうしてだろう?

 チケットを手配する気持ちが起こらない。

 旅路を描く地図は、まだ用意できていない。


「出会った人間と別れるのが嫌? 別れなくてもいいような人と仲良くなる?

そんな馬鹿なことを言う ばがぼんど なんていないよ。

第一、咲恵はもう沢山の別れを経験してきたんじゃないか?」


 この前、チャールズにそう笑われて、胸に刺さった、わたし。

でも、それでも、わたしはわたしの旅をしたい。

 床に就く前には、きまってスーツケースの中身を確かめている。

 そして、リビングルームのカレンダーは、まだ去年の七月のままなのだ。

 

 airs_rock3

(了)

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。