浮惑なカモメ 第十五話(最終話)

第六章(2)

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季節は春になった。

まだ肌寒い日の午後だった。

「で……、挙式はいつさ?」

 ぼくはおずおずと尋ねる。

「もうすぐ一年だから、そうしたらね」

「離婚記念日を過ぎたらってことか?」

 入籍は喪が明けてから、って気分でね。玲子は笑った。 

「あゆむのほうは? 恵美さんとどうなの、うまくやってるの?」

玲子は、この緩やかな風に乗せるようにさらりと聞いてきた。

「ああ、まあまあ……な」

 ぼくは薄く笑った。

玲子もぼくも、あれから一年近くが過ぎ、今の互いをたくさん知りたがる。

けれど、互いの現在を分かち合った所で、

巻き戻しの利かない過去と気持ちの折り合いがつくわけでもないことも知っている。

ねえ、ところで、

「松坂屋デパートの屋上で再会しようなんて、いかにもあゆむらしい」

約束を交わした時、そう思ったのだと、玲子は笑った。

もう間もなく十年にもなる。二人の初デートはここだった。

もっとも、感傷的な涙を誘うあれじゃない。

「あなたはこういう演出が好きね」

そう。あの頃のぼくはいつだって、

二人の時間にスパイスを利かせる「場」のアイテムを凝らしたがった。

「良く言えば優しいのだけれど、悪く言えばキザ。でも昔のわたしはそんなあゆむの性格が嫌いじゃなかった。今日わたしね、できるだけあの頃のメイクの仕方を思い出してみたの」

別れてもなお、こうしてきみを傷つけたぼくを受け入れることができるのか。

玲子の素直で純朴な笑顔が眩しい。

この屋上広場が、ではなく、玲子が今この瞬間ともに紡いでくれている時間は、

泣きたいほどに懐かしかった。

「あゆむ……なんかしみじみだね」

「ああ」

春の霞んだ青空を街のビル群が刻んでいる。

「昔は、あのあたりにちっちゃい観覧車があったよね」

玲子は、今子供が跳ねている辺りを指差した。

「ってゆうか……」

この居心地。相手が玲子でなきゃ感じない感覚。

「ん? なに?」

「いや……」

何でもない。

セピア色に染まってく自分の心模様を、ぼくはうまく伝えられる気がしなかった。

口にしかけた言葉を、ぼくもそっくり春風に預けた。

郊外に 庭付きの家を抑えた。ポーチに置くうさぎの置物をこの前買いに行って、

造園業者にミニ菜園と十種のハーブを注文した。

そんな風に忙しい週末は、彼の赤いプリウスで出かける。

昼は自由ケ丘あたりでカフェランチ。新居の手配であちこち回ったあと、晩はゴルフ練習とか。

新しいダンナは、わたしになんでもくれるのだと、玲子はゆう。

 “幸せ ”という単語までわざわざ使って、あなたと離れた今の暮らしが程良いのだと、

玲子はゆう。

「彼は、わたしを拾ってくれた。離婚したばかりで、疲れ果てていたわたしを」

その温かい胸に抱いた。

「髪が抜けちゃって隈もすごかったの」

化粧は面倒。ファッション誌なんて一切読みたい気持ちもない。

メアドを変えたら、女友達と疎遠になる。

「でも親の顔を思うと死ぬ気にもなれないでしょ?」

だから玲子はひとりぼっちで生きる覚悟もしていた。

きっかけは、ダンナからのディナーのお誘いメール。

彼は玲子の新しい派遣先で総務課長をしている。一部上場企業。

将来の約束されたサラリーマン。

「はじめは、渇いた女が御趣味かしら? って、疑ったけど……」

玲子の新しいパートナーはすぐに見つかった。

「会うこと」はずっと拒んできた。

顔を合わせればどんな気持ちになるのか、おおかた察しがついていたからだ。

「結婚することになったんだ。だから、もう一度あゆむに会っておきたい」

ぼくの心が動いたのは、先々週に入ったそんな内容のメールだった。

「へえ、おめでとう。じゃあ、その前に一度会っとくか……」

と、いつもより返信が敏速だったのも、正直に語れば開封するや否や、

キュッと心臓が痛んだからだ。

「あゆむに感謝してるの。」

「えっ? 恨んでいるの間違いだろ?」

と、ぼくはおどけた。

そうじゃない。

「たしかに、あなたはわたしを傷つけた。でもね、五年も付き合ってから、やっと結婚に踏み切った時ね、二人がお互いに果たすべき役割はもう終わっていたんじゃないかなって」

今でも時々玲子の夢を見る。

「なあ……ちょっと後悔してるか? 別れたこと」

忘れたことなんてない。

「ううん。してない」

玲子はきっぱりと答えた。

「そうか……。おれは、すげえ後悔してるぞ!」

 目まぐるしくギタギタした記憶が蘇る。

 ぼくを抱く男たちの厚顔。

 野毛の街角で反吐をはく酔っ払い。

 家族のために身体を売る中国女。

 凍えて逝ったサミー。

 ぼくの知らない男に抱かれる恵美。

 と、

「スゲエコウカイシテルゾ!」

近くにいたガキンチョがぼくの大身振りを真似て、

ぼくらは肝をくすぐられたかのようにカラカラと笑った。

久しぶりに腹を抱えた、ぼくはそう思った。

「でもいっしょにいた時、楽しかったよな」

「うん……。あなたはあなたなりの仕方でわたしを愛してくれた」

「……」

「わたし、そう信じたい。だから、あゆむは離婚を選んでくれたんだって。最後の日、わたしが今よりも “幸せ ”になるためだって」

 確かにそう、ぼくはゆった。

「玲子……、ぼくたちはこれからもっと楽しくならなくちゃいけないよな」

「……そうだね」

「会うのは今日だけだ」

ぼくはこみ上げてくるものを抑えてそうゆった。隣から涙の温度が伝わって来たけれど。

ぼくのきみが零したそれを、今は気が付かないふりをするのがいい。

なあ。玲子……。

「なに?」

「やっぱり化粧の仕方、変わったよな」


(了)


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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。