浮惑なカモメ 第五話

第ニ章(2)

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 玲子と離婚して間もなく、ぼくは恵美と子供を引き取るため野毛に近い丘の上に

1LDKを契約した。

「都合がついたら、なるべく早く来て欲しい」

ぼくは恵美にアドレスを伝え、合鍵を渡した。

それから数日後、とつぜん恵美と連絡がつかなくなってしまった。

あれからもうすぐ二カ月が過ぎ……。


 煩わしくなって、結婚前から勤めていた仕事を辞める。

近頃は日がな布団を被っているか、男に弄ばれるかで、ようやく呼吸をしている。

 時々、湯船にしっぽりと浸かり、

夢に出たお爺ちゃんの言葉を思い出しては泣くこともあった。

 新しい暮らしが始まってから数週間のうちは、

頻繁に玲子からのメールも入っていたけれど今さら返しはしなかった。

 テレビやパソコンは置かなかった。

世間とずれ始めた自分が惨めになるのが嫌で、転居を期にぜんぶ棄ててしまった。

郵便は時々請求書の類が届いた。後はなかった。

 今日は梅雨の時期に珍しく晴れ渡っている。もう夏も近いのだ。

ぼくはカーテンを開け、窓を開いた。

爽やかな風が吹き込んで、それでまた悲しくなる。


 曇りや雨も悲しいが、晴れはいっそう悲しい。


 誰もが清々しいと、この空を仰いでいるだろうに。

健やかに汗をかき、笑顔の子供と手を繋ぎ、

「おはよう」と、仲間同士が声を掛け合っている。

幸せが陽光に溶けて注ぐイメージは、

ぼく独りだけを世界から除け者にした。


 悲しくて仕方がなかった。


 眼下には恵美と初めて出会い、いま男娼として働く街。

点々と置かれたマッチ箱のような建物は、ぼくの細胞そのものだ。

ぼくはうつらうつらと見下ろしてひたすら泣いた。

 ただ、何がそんなに悲しいのかは正直よくは分からない。

いまここにいるぼくのぜんぶは、自分自身が選んだ生の帰趨であることくらい、

はっきりとしているからだ。





  憂鬱のうたた寝に沈んだぼくは、

ずいぶん前に玲子と運んだコンサートの記憶とシンクロして奇妙な夢を見た。

「このライブ会場に来てくれた、一人ひとりに、あたしたちの最後のソウルを届けるよ」

 ボーカリストのYURIは息を整えながら絞り出す。

「今日、あたしたちのドラマが終わる」

この静寂は濁りのない水。ぼくたちの吐く息が無数の泡となって天井の闇に消えていく。

「でも、あたしには見える」

 YURIは頭の遥か上の方にある何かにすがりついて訴えるようだ。

「見つけたんだよ、あしたの光を。なあ、オーディエンス!! あなたたちにも見えるでしょ!?」

宇宙に放出する熱線のように、あるだけのエネルギーを込めてシャウトした。

YURIは色白で細くて、小柄だ。その灯火が一見して青白く仄かであっても、

ひとたびステージに上るとどんなパッションをも凌駕するほどに、

爆発寸前のエネルギーを貯めこんだ存在感が累乗して巨大化していく。

「YURI!」

 聴衆は無意識のうちに、彼女というブラックホールに牽き込まれてしまう。

「忘れないよ!」

「おれにも見えるぞ!!」

その泡泡は、鮮やかなジェリービーンズみたいに色を変え、

パッと散らばって、あっという間に空中で霧散した。

「じゃあ、やるぞラストの曲!」

ギタリストのKATUYAが気合い十分に絶叫した。

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。