浮惑なカモメ 第二話

第一章 (2)

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妻とこんなやり取りをしてから、ちょうどひと月がたつ。

玲子が先に荷物をまとめて出て、ぼくは独りきり、

二人で探して選んだこの部屋を片付けてきた。

そして今日。ようやく空っぽになって、

穏やかに暮らしていた頃のぼくたちの幻影が、

たいして汚れてもいない壁紙に映って見える。

ぼくは、泣くつもりだったので泣いた。

涙さえ流せない別れは、二人を包容してくれたこの場所に失礼だと、

なんだかしょんぼりしていたからだ。

あとは、昼前に役所で玲子と落ち合い、届け出を済ます。

元町のカフェに移動して、

「さようなら」の乾杯をする。コーヒーで。

すべては予定表どおりに過ぎていく。

淡々と。

機械的にこなしていかなければ、言い得ない感情に押し潰されてしまう。

「スニーカーがほしいの。パンプスは捨てて」

これからたくさん歩きたいのだと、玲子は前を向く。

「じゃあ靴屋までつきあうよ」

「もう少し手をつないでいてくれるの?」

うん。そこで別れよう、と、ぼくは返した。

玲子の手は冷たくて、震えている。

五月の暖かい午後だというのに、冷たくて、震えている。

いく年月も、ぼくらはたくさんの道を歩いてきた。

手を取り合って歩いてきた。

最後の横断歩道。

最後の曲がり角。

最後の玲子のぬくもり。

長い道の終わりが、こんなに短くて、こんなに感覚のない場所だって、

今まで想像できたはずもなかった。

「元気でね」

最後くらいもうちょっと気の利いた台詞はないものか。 

「あゆむもね」

ぼくらは繋いだ手をほどく。

二人に今さら「どうして?」はない。

他に別れの言葉もいらない。

そんな気分は、きっと玲子も同じだろうな、と、ぼくは察した。

時を置かず、特売が連呼される賑やかな店内に、彼女は消えていく。

もう路傍で待つことはない。緩やかに風が吹く。

人ごみも、喧騒も、新緑の季節に似合わない枯葉のようで、

笑顔の親子連れは、レリーフのように固まって見える。

ぼくは、とめどもなく湧き起こる様々な感情や淡い記憶を振り落としたくって、駆けだした。

いまさら心の内を形容する言葉を駆使して、

灰色でささくれた気持ちのひだを表現したところで何になる。

ひとたび牙を剥いたぼくの中の悪獣に、憐憫の情を手向けるほど馬鹿馬鹿しい話はない。

人として本来持つべき情を殺す。

「節操なし、節操なし!」とただ唇を強く噛みながら、

ぼくは恵美の待つホテルに急いだ。




恵美はセックスが好きだ。

上に乗って、 自分のリズムで腰を振るのが好きだ。

ぼくが果てても、おざなりにぼくのモノを口に含んでこすると、

すぐにまたがって、入れてほしがった。

「ねぇ、あゆむ……ずっと うちといっしょにいる? 傍にいてくれる?」

恵美は、乳房の向こうから見下ろしてそう尋ねる。

「もう、うちだけのものなんだから……」

お願い、中に出して! と。

「ああ、ああ、いく!」

快感に顔を歪めたその瞬間、恵美は力なくしな垂れかかってきた。

二人の熱い呼吸が互い違いに重なり合う。

「なあ恵美。ぼくにはもうお前だけなんだよ」

と、掻き乱れた頭を抱いた。

恵美の汗が唇に触れ、漁るようにしてもう一度恵美と舌を絡ませる。

「いつ仕事から足を洗えるんだ?」

「……」

 その問いかけに、恵美は表情を濁らせた。代わりに、

「うちが奥さんよりも幸せにしてあげるから」

と、ジャムのように甘い言葉を塗りつけて、細かいキスで何度もつつく。

授乳を済ませてつんと立った乳首も、家事で乾いた手の表情も、

それでいてまだ瑞々しい肌も、火照った赤い頬も。

やはり愛おしいものは愛おしい。

そのすべてが、ぼくの火を灯し消えることはない。

きっといつまでも……。

きっとそうだ。そうに決まっている。

ぼくの選んだ場所は間違ってなんかない。

恵美の寝息を耳元に聞きながら、まどろんだ。

つづく

 

by ケイ_大人

 

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。