浮惑なカモメ 第八話

第三章(2)

写真 1 (3)

 

タクシーを丘の上で降りて寝城までキラの手を引いて来ると、

戸の前でキラはその手を解いた。

「アリガトウ。ワタシ、ヤッパリ店ニ戻リマス」

少し休んでいけばいい、ぼくはその頬を撫でる。

「デモ皆ガ心配デス」

「キラが戻っても何も変わらない」

 それに拘束されれば、まちがいなく国に返されてしまうはずだ。

「分カッテイマス。デモ……」

 キラはその場にしゃがみ込んで泣きだしてしまった。

「ワタシ、ドウスレバ……」




 携帯越しに鉄ママの慌てた様子を察した。

「ちょっとヤバいみたいなのよ。いい、今からすぐにその店を出て。
今日は自宅に戻りなさい」

「どうしたんです?」

「いいから、話は後で。いいわね、あたしも今日は早閉めするから」

と、電話は一方的に切られてしまった。

 ほどなく、店の戸口が慌ただしくなる。ボーイの男や待機の女たちがざわつく。

久美がこの席に駆け寄ってきて、意味の分からない中国語でキラに何やら説明をしている。

「荷物トッテキマス」

 キラはにわかに席を立った。

 すると今度はぼくに事情を訴える。

「アユムクン、警察ガ表ニ来タカラ、キラト一緒ニ裏カラ出テ。
コノ子、正シイノビザマダナイカラ、ネ、ゴメン、オ願イシマス」

「本当ワ、久美モ働クビザナイ」

 キラはぼくのベッドに腰をかけ、訥々と零し始めた。

久美もキラも留学生ビザで日本に来ている。
生活費を稼ぐために、汪さんの店でホステスをしていたのだとゆう。

「でも、そのくらいのあれなら、うまくするとすぐに釈放されると思うけど」

「久美ワ、他ノ悪イコトモシテイテ……」

 ぼくにはそれが何なのかすぐに見当もついた。

「ワタシタチ、パパニワ 逆ラエマセン。アノ人コワイ人」

 ぼくを犯す時、汪さんは薄気味悪い笑みを浮かべている。

恍惚とも蔑みとも見分けのつかない顔の緩みだった。
いまあの表情がパッとフラッシュバックした。

「久美、言ッテマシタ。 野毛ノゲイノ人ガ、中国人女スキナ客ヲ、パパニ紹介スルッテ」

 そうして久美たちは、指定された部屋に出向き男たちの相手をしていた、と。

「デモ、アユムサン、信ジテ。ワタシワ、マダ 来タバカリ。
ダカラ、マダソウイウコト知ラナイ。ヤッテナイ」

 カーテンを開けた。眼下に街の灯り。

ぼくの細胞たちは、びしょびしょになりながら息苦しくしている。

ドロドロになって藻掻きながら、なんとかして生き延びようとしている。

「久美ワ優シクテ、ワタシヲ妹ダッテ言ッテクレマシタ」

 だからキラが助けに行きたい、と。

「悪いけど……やめたほうがいい」

 何事もなく済んで汪さんの下にいることが、

彼女たちの幸せとはとても思えなかった。

「デモ……」

 キラはなにか話しかけたが、また俯いてしまった。

「キラはお父さんのために頑張るんだろう? 学生ビザでも正規に働けるところはあるはずだし……」

「ソレデワ、オ金稼ゲナイ。ワタシ、来月知ラナイ日本人ノ人ト結婚スル。
会ッタコトナイ人ト。ソレニモオ金カカル。オ父サンノ病気ワ、モット一杯カカル」

 金のためにこの街に来て、この街で働くために金を使う。

 けれど、キラはこの国の法律、あるいは貧困とか格差とか。

そういう難しいことを恨んじゃいないのだろう。

 もし恨む相手があるなら、稼ぎの悪い自分自身のことくらいかもしれない。

 ぼくはそっとカーテンを閉めた。

「逃ゲテモ仕方ナイノデス。結局、ワタシワ、アノ街ニ戻ルシカナイ」

 キラは指先の丸い手で毛布の際をギュッとする。

 ぼくは斜に向き合うように座って細い肩を抱いた。

キラはすっかり重くなった頭を、ぼくの肩に寄りかける。

「アユムサン、スミマセン」

 いいんだ、と、ぼくはその黒髪を撫でた。

「ワタシ、マダ男ノ人知リマセン」

「……」

「ワタシヲ、買ッテクレマスカ?」

「えっ?」

 キラは少し顔をもたげて、ぼくをまっすぐに見つめた。

「……」

言葉が喉奥に詰まって声が出ない。

その瞳は、恵美と初めて出会った時と同じ、悲しみの色をしている。

売られる雌牛の目。

 ぼくは咄嗟に座を立って逃げ出したくなる。

「ゴメンナサイ、冗談デス」

 彼女は赤面して俯いた。

「ゴメンナサイ、ワタシ……」
 



 恵美は商売にかかるとき、ぷすって穴のあく音を聞くのだとゆっていた。

黒くてちっちゃな点が空いて。

すぐにその黒が染みのように滲みだし、焦げた水溜まりみたいのがいくつも出来てく。

はじめは一つ二つって。そのうち塵かすが一杯に増えて、

「中で大きな塊になっていくの。水に浮いた虹色の油みたいに、
白点の気泡が僅かに心の中に残って、そこにうちはどっかと腰を下ろして、
男が果てるのを待つんだ」

風が吹いて目が覚めると、黒墨の水面に小舟が流れてくる。

「そこにいつもあゆむがいるの。

もう『帰ろう』って、右手を差し出すの。

怖い顔して、探したって。

うち、首を振ったら 、

あなたは急にバニラアイスクリームみたいな笑顔になって、

『ばかちゃん、ばかちゃん』って、地団駄を踏んでいる」

 そしたら蓮の葉で出来ている船底に穴があいて水が漏ってしまう。

「あなたはとたんに慌てて、『どうしよ、どうしよ』って、右往左往すんの。 うち、『しめた!』って、そこらへんから小石を拾って投げたわ」

酷い話だな、とぼくは苦笑った。

「それでも飽きたらなくって大きな黒雲母を放って、舟ごと沈めてやるの。
あなたは溺れて藻掻いて、『虫歯の治療が終わってないのに』って、泣いていたわ。
でもなんかいいでしょ? この話」



 
「黒い水に溶けてしまえばいい」

「エッ?」

「深い底の、そのまたずっと底に沈んでしまえばいい……」

「何? 意味分カラナイ」

 キラは小首を傾げた。

「ぼくには、待っていなくちゃいけない女がいるんだ。だからきみを抱けない」

 キラは数百円のビニール傘をありがたそうに受け取り、部屋を出ていった。

 去り際、何も持っていないのだけれどせめてのお礼と、未開封のドロップスを置いていった。

ぼくは要らない、と、拒んだのだけれど。それはスターバックスのモカキャンディだった。

 一つ口にする。

 甘くて、苦くて、黒い味がした。


写真 2

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。