わのみせ

-vol.35- □■ 料理にとって美とは何か ■□

 

2014年1月15日来訪

 

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太宰治の小品「青森」の中に
棟方志功の作品が出てくる。

優美というよりも素朴さの美を体現した
作品を幼少期にみて「なかなかよいと思」った太宰の審美眼には
畏れ入る。



ふるさとは遠くにありて思うものという。

近くだと、欠点も見えるからそういうのだろうか。

逆に、北海道のじゃがいもは北海道で食べるべしという。
いわゆる地産地食であるが、

稲作をやっている御宅は
自分たちの食べる米をとっておきにする。

それが、すこぶる旨いときく。

流通しないものは、地方まで足を延ばさなくては
口にできない。

流通しているものであっても
その食材のありようは
育った環境で食すとき成果を発揮するものであるならば
郷土料理は新橋で食べるのは邪道なのであろうか。

新橋や銀座では、各地方の物産展が行われたり、
郷土料理の店も多い。



柳宗悦は、
日本文化の美が一番主張できるのは民芸品だという意味のことを言っている。

その理由を簡単に要約すれば、
自然のありがままの姿が自然に表現されているからである。

なるほど、棟方志功の描く版画を観て、堂々たる雰囲気と大胆さを感じる。

ありのままの持つ力が溢れてくる。

そこには背伸びは不要だ。

まるで食材が育ったところで発揮する
本来の力が溢れでるのに似ている。




今日は、棟方志功の出身地である
青森の郷土料理を今日は食べにきたのである。


わのみせ

WINGの銀座寄りにあるその店に入った。

郷土料理の意図にそぐわないかもしれないが
フローズンビールを頼んだ。

青森の雪に触れてみたいと血迷ったのかもしれぬ。

beer



お通しは、ひじきである。
素朴だ。

いくつか素朴な料理を並べてみた。

馬刺し

馬刺し


青森は馬の産地である。
馬刺しが有名なのは、青森以外では信州と九州であろう。

信州に比べると、あっさりとした
風味であるように感じる。


烏賊の一夜干し
いか丸干し


これも質素であるが旨いものである。
合わせるお酒は
青森の地酒じょっぱりを選んだ。

厳寒の青森にいって、吹雪に目を細め、身体を縮こませながら
のれんをくぐり、居酒屋の木枠扉をぎこちなくガラガラ開く。

店の中央には、赤々とストーブが燃えている。
店内は人はおらず、古ぼけたラジオから雑音まじりの音がする。
その音に混じり やかんが沸いた音がする。

ストーブの上にはよくみると烏賊が吊るしてあるのが見える。

なんだか、ほっと一息ついて、身体のこわばりも少しほぐれてきた。
熱燗に烏賊で一杯やりたくなる。

そんな情景が浮かんできそうだ。

ふと我にかえったように、烏賊をつまんで
日本酒をくいっとやる。

青森にまだいったことのない自分は、
ともかくもそんな想像を膨らませながら烏賊を口に運ぶのである。

鴨のたたき

鴨たたき

”たたき”といっても
お店で出せるのは十分火を通したものだ。

ちょっと悲しくなるが詮無きことである。
それでも、鶏肉より野趣あふれる香を感じる。



素朴が美となるのにはいくつかのハードルがある。

雑器などの民芸品には、無心の美があるという
つつましやかで穏やかなる美ということである。
装飾過多なるものは、とんがっていて嫌だということであろう。

でもそれだけでは、装飾のアンチテーゼという相対的な美でしかない。

柳氏は次のように美を説く
美は素材による。
単純さにこそ美の本質があり、
それは反復によって醸し出されるという。

単純・素朴・質素な美徳である。

「美」を「食」と置き換えてみると
郷土食の神髄は実はそんなところにあるのではないかと思う。

空気が美味いから、食材が美味いというようなことである。

それは、現代においては、
素朴であるが、それゆえに、とても貴重なる体験になってしまったようにも思う。

棟方の作品を見て思うのは
活き活きとしていることだ。

あるがままだからこそ、できる表現な気がする。

素材がそのままというのはなんとも頼もしくもある。

さて、今日のメインディッシュ
せんべい汁が出てきた。


せんべい汁

旨い。

ほっとする味だ。

すいとんの材料として
日持ちのよい食材、せんべいを使ったのがはじめだとのこと。

天保の大飢饉のときに生み出された料理だという。

そうなるとこんなに出汁は旨味がなかったかもしれない。

他の具も乏しかった時代だったかもしれない。

しかし、貧なるものだから素朴だというのとは違うであろう。
まっすぐさと あるがままをそこに感じるからである。

せんべいは、せんべい汁に使うことを前提として作られているという。



しかし大衆だけでは美にはならぬのであろう。

木に鑿をふるって削り出すものは
自然そのものであり、自然にゆだねるからこそ
自由が出てくると柳宗悦はいう。

人為なるこだわりは自由のさまたげになるのである。
頭で考えた美は邪(よこしま)でありぎこちなくなる。


誰が故郷を思わざると、書を捨てて街に出た寺山修司も
青森の出身。

街に出た寺山の愛したものはマキシムのフランス料理にあらぬ
大衆料理であった。

ライスカレーは家庭の味であり、ラーメンは街の味である

と名言を残している。

見方によってはどっちが素朴でどっちが洗練かは意見が分かれるが
寺山修司の街に出た当時はそういう状況であったのであろう。

街の味であるラーメンは昨今では
ずいぶん 歪(いびつ)さを増したように思う。
街がつくるラーメン対する工夫を洗練と呼ぶのかもしれないが、ラーメンが持つ本来の力には関係がないかも知れぬ。

せんべい汁は、B級グルメグランプリの常連のメニューであるというが
その誉(ほま)れと柳氏の言説は相反するものがあるように思うが
どうであろうか

あげつらうものや競うものでなく
そこに自然とあるもの
それが郷土料理の魅力であろう。

してみると新橋に郷土料理があるのは
歪になってしまったサラリーマンを素朴を思い出させるためであるような
そんな気がしてならないのである。

参考:わのみせ

photo by #DOY

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