ゆうき家

-vol.23- □■居酒屋へ向かう道の渦巻き■□

ーー2013年7月9日来訪ーー

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居酒屋を求めてさまよう航海は、
目的のない旅である。

居酒屋の居は、とりもなおさず居場所の居であるが
何人もそこに定住はできない。

定住した途端に、日常の懊悩の業火に焼かれてしまう。

その居場所では
すべてのイデオロギーを超えるなにかを求めるのだ。

そこで支配ができるのは、
気分だけである。

ドガは
「イデーがないわけではない。
けれど書けない」と悩んだ。
すかさず、マラルメは詩は「イデーでなく言葉で書くものだ」と
応酬した。

マラルメは「海のそよ風」の中で
厭世的な魂の迷いを、
「魂よりも水夫にきけ」と昇華している。

それなら水夫にきいてみよう。

と久しぶりに、メルヴィルの「白鯨」を手にとった。



蒸し暑さが夜まで残る。

炎天下の強さはやや和らいだものの
それでも背広を着ている人は まばらである。

赤ら顔で話しながら通る
ワイシャツの中をすり抜けるように歩く。



アメリカ・ルネサンスの白眉
「白鯨」をDHロレンスが評して曰く、

どこだっていい、とにかく外へ向かうんだと、
旅立っていきつく先が、太平洋のど真ん中なのだ。

海の譬えは、明暗に分かれて存在する。
すなわち、豊穣で明るい母なる海と
荒れ狂う波や孤独な航海を強いる暗さを持った海
さまざまな矛盾を清濁あわせ呑んだ形で
存在する海に、そして海を刻むメルヴィルの筆(エクリチュール)。

その展開は、まさに海や天候の気分次第なのである。

明(キアロ)と暗(スクーロ)を
たどる波は、目的を無目的にする。

なにかをやり遂げた人が、空虚(むな)しさを感じるように、
死にゆくものも死出の旅路にすぎないように、
人はみな航海の途中に過ぎないのだ。

上下2巻 1,000頁に及ぶこの大作は、
世界文学10選に選ばれるほどの名作であるというが、

突然 鯨学や、気候や航海術について
博学的な知識が披瀝されている。
そうした脱線が多くある。

映画化もされているので、
その映画の原作を求めて、
本作を読もうとした人がまず感じるのは

な、長い・・・・

ということだけだ。

文学的には、それ相応の意味のある脱線だということに
気づくのは、文学に対して親和性のある人に限られるだろう。

海賊に追われながら、白鯨を追う。
船長エイハブは、直線的で、唯我独尊な自我を全うしようと
宿敵モービィ・ディックに挑む。

彼の右腕で、一等航海士スターバックは、
彼の直線的な野望をしばしば止めに入るが
エイハブとほかの船員ほぼ全員とともに 海の藻屑となる。

ただ一人 残されたイシュメルがこの物語の書き手である。


どこの店も入口から中の様子を伺うと
ワイシャツの群れが見える。

2008年のデータによると
新橋にある居酒屋の数は700軒を超える。

新宿の850軒と比べるとやや少ない。
しかし
新宿の乗降客数は360万。
新橋は86万である。

新宿の4分の1に満たない乗降客に対し
700軒という数字はニーズを表している。

それだけ新橋は酔客の比率が多いのである。

そんな酔いどれの街の700だが、
ワイシャツの群れを見る限り、
まだまだ増えてもよいのかもしれぬ。

当然 よくお客の入る店とそうでもない店があるのだが、
酒飲みのニーズは突然発生する。

予約がなくては入れない店とは折り合いがつかない。


気分の眷属だからだ。


突然発生が伝播したのか。

火曜日だというのに、どの店も一杯だ。

こうしたときは
黒服にきくよりも、
人の流れに身を任せてみるのもオツである。

急に人ごみに切れ間ができたら
少し戻ってみればよい。

それなりに収容できるお店があるかもしれない。

「ゆうき家」

今夜はそこが居場所である。

こまごまとした店に割って入るのも一興であるが、

店探しにあぶれて、暑さにも耐えかね、
一心地つけたいときにはこうした店はオアシスの役目を果たす。

まずは、ビールを頼む
お通しは、浅利の佃煮だ。
どこか懐かしい味がする小鉢だ。

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奥の小上がりに通された。

居酒屋の人間模様を眺めるに
小上がりは、特等席だ。

飲食店はこうあるべしと
自分の知っている形に置きなおしてみるよりも、
まずは店を眺めてその流れに身を任せるのが
居酒屋の愉しみである。


おすすめに上がっている 刺盛りと
丸太とこの店が呼んでいる つくねを注文した。

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刺し盛りはいつも豊潤な海を感じる。
さまざまな味覚に豪勢な気分になる。


つくねは
肉汁がとてもジューシー。
軟骨もはいって、
鶏を丸ごと頬張る野性味も加わる。うまい。

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居酒屋に入ると
いつもあたりを見回す。

好きなものというより
この居酒屋ならではのものを求める。

おすすめをきくことがある。

それをメインに据えて、

アテ + メイン + 箸つなぎ
の三点セットで頼むことが多くなってきた。

アテとは、
すぐに出せそうな品のことである。
キムチ、
ホタルイカ沖漬け、
塩辛などなど・・・である。

つなぎは、
魚をメインとしたならば肉
逆ももちろんある。

あとはアットランダムに進む。

この辺りは、店との呼吸を楽しむところであろう。

 

幼きころに、
捕鯨船の記録映画を観た。

小さな船を大海原に出し、
船体と同じくらいの大きさの獲物を狙う。

呑みこまれそうな恐怖に、手に汗を握った。

この格闘で大事なのは呼吸だ。
鯨の力に負けぬようバランスをとりながら
追い詰めていく。
急ぐと、巨大な力に負けてしまう。

捕鯨は神話をつくる。

人は神話の前では、
狂気や神といった異常に対峙する。

 

鶏の味噌漬けを追加した。
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なかなか注文をとりに来れないときもある。

そんなときには、
ゆっくり店全体をながめてみよう。

フロアは何人で切り盛りしているか。

店員さんは目と目をあわせてくれるか。

店員さんの中でチーフは誰だろう・・・

流れの中で 頃合いを見計らい
さっと 手をあげる。
あるいは声をかける。

折り合いがつけば、いうことなし。

リズムがあわないこともご愛嬌だ。
腹を立ててはいけない。


日常とは違う異空間も
居酒屋のいいところであろう。
私はいつも、其処に敬意と少しの畏怖を抱く。

しかもそれは、とても穏やかな畏怖であり敬意だ。

それでも
そこは、注連縄の結界が貼ってある異空間。
”神話”がつくられる場所なのである。

いつも居酒屋(そこ)にいって
自分を見つめる。

そのゴールはスタートに戻ることである。
これもウロボロスといってよいのであろう。

自分探しの中で、
その店ならでは というものを求めてしまう自分がいるのだ。

壁に大きく鯨のメニューがあった。
それを頼むこととしよう。

鯨ベーコン

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そして
竜田揚げだ。

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鯨はこんなに美味かったっけ。。。
幼少期に食べた給食の味を思い出してもみる。

 

エイハブの欲望を、
イシュメルが写し取るエクリチュール。

ひとつのものは 次のものが来て、
それとの関係性の中でしか意味を持たない。

立場や理論などが確立する前に壊され
次の波がくるといった めくるめく流れ。

追いつつ追うという
ウロボロス的な無限の狂気を
イシュメルが円環に閉じ込める。


新橋らしさを求めて
さまよう自分の筆は、
巨大なクジラに飲み込まれる運命(さだめ)なのか。

この店も新橋らしい。
きっとあの店も新橋らしいのである。

相手が強大すぎるのかもしれない。
だんだん畏怖を感じてきた。

気分を相手にすると
Webも羅針盤にすらならない。
その辺のオヤジさんに話しかけても
あちこちを指し示すだけである。

スターバックもいない。
心細くなって スターバックスに飛び込んでこうして書いている。
(スターバックスの語源は白鯨に出てくる航海士にちなむ)

居酒屋を書きつけても
それは、皆が居酒屋を追体験するまで
意味をなさないのだ。

たとえ追体験しても、
居酒屋と
そこに行った人の気分は再び来ないのではないか。

ならば、白紙のままでいいのではないか。
まさに
白きがゆえに冒しがたき白(マラルメ)
だ。

でも、
それでも、書きつけようと思う。

「イシュメルと呼んでほしい」で 
始まる長大な「白鯨」の物語の後も、
海は、広大にただ広がっていることだろう。

それでも白鯨は書かれたのである。

飽く事なき 居酒屋をめぐる循環運動は
ゴールはないのだ。その巡回にこそ意味がある。


エイハブの物語は永劫回帰だ。

渦巻く悪循環ともいうべき酒学こそ
新橋だと思う。

勇気をもってそれに臨もうと思う。

新橋を語るにふさわしい店というのは
どこにもないが、

ゆうき家は、
新橋らしい店だといえる。

大箱なりの新橋らしさが光る店である。

 

参考:ゆうき家

photo by #DoY

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