馬並み家

-vol.7- □■草原のフォークロア■□

ーー2012年11月17日来訪ーー

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江戸を匂わせる風情の店内には、

なぜか 浮世絵、それも春画のたぐいが 欄間の部分に配してある。

今夜は、馬肉をたべて精力をつけようとして この「馬並み家」に入ってきたのだ。

馬肉といえば、信州とか熊本とかだが、 ここは、青森産を供する。

スタミナ料理には、焼酎。

富乃宝山を頼んだ。

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お通しは、シャモロック焼とほうれん草のおひたし。

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シャモロックの歯ごたえと おひたしの優しさが絶妙だ。

女性からみると欄間の春画や、 背広をかけるところが、

天狗の鼻になっている隠喩も ”おぞましきもの”なのかもしれない。

クリステヴァの「恐怖の権力」が出たのは1984年。

”おぞましさ”の意味作用をアブジェクションと定義し、

その意味作用の穢れ-清め、魅力-嫌悪といった裏腹の関係を論じた。

アブジェクシオンは、 自分がただ忌避していて、そこから避難できるものは対象としていない。

しかしながら、忌避しているのにもかかわらず、身近にあるものをとりあげる。

なんでこんな難解な概念を定義するのか、それには理由があった。

牛馬は、中国では食用は禁忌している。

フォークロア的には、あれは父母の生まれ変わりなのだからというらしい。

仏教で牛馬は聖なる動物であるのだ。 豚や鳥ならよい。

中国でマクドナルドよりもケンタッキーが流行るのはこのためである。

一方で、 アメリカでは、侮蔑言葉として”子犬”が出てくる。

イスラムで豚は禁忌される。

この理由として、ある文化人類学者は分類法を持ち出す。

聖なるもの、遠くにあるもの、身近なもの。そのどれでもないもの。

このうち、どれでもないものがタブーとなる。というのだ。

たとえばオオカミは、遠くにあるものとして、禁忌対象とはならない。

中間的で座りが悪く、気持ちが悪いという意味作用がはたらくのではないか、、、

そんな構造的な解釈なのだ。

イスラムにとって豚は、中間的存在ゆえに、けがらわしいと感じる。

分類不能だから禁忌したということであるが、

それは、その土地や積年の習慣に触れないと、実感が沸かない。

タブーとまではいかないが、 生食を嫌う人も少なくない。

科学的な安全性の問題もある。

ユッケをめぐる騒動のせいで、牛の生食はタブーとなった。

今年の夏以降、生レバーは料理店では出せないのだ。

新江古田駅が最寄といっても徒歩15分以上歩くのだが、 ”やっちゃん”という店がある。

なぜこんな辺鄙な場所にと思うのだが、美味なる生食の肉を出す店である。

安全性確保のために精を出して頑張ってきた店も、法の一律性からは逃れられない。

今はどうしているのだろうか。

少しだけ照度を落とした店内で、思いをめぐらしていると、

グラスの氷がコトリと動いた。

それを合図のように、 馬刺しがきた。

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白いのが、コーネといわれるタテガミの部分。

ねっとりとした食感の中に旨みが広がる。

くどさはまるでない。

化粧品、薬にも使う馬の油。

しつこくなくさらっとした感覚さえも浮かぶうまさだ。

フタエゴは、ばら肉の部分。 カルビといったらよいのか。

上品な脂と赤身の妙なる重奏。

富乃宝山をいく。

富乃宝山は、 温度管理を清酒なみに徹底した黄麹をつかって醸造する。

これが芳香につながる。

やはりロックが一番だ。

喉を焼いて通る。 ふぅーと酒気の香りがせりあがる。

嘆息するほどの愉悦だ。

今度は赤身。 うなってしまう。とにかく、うまいのだ。

新鮮さが売りだけあって 肉質の良さがそのまま伝わる。 食べるほどに食欲が出る。

なるほど馬肉は薬なのだ。

芋焼酎に変えて、 もう少し味わうこととした。

野性味がなんとも、胃と心に喝をくれる。 力強い。けど、優しい。

ふと。昔人に思いをはせる。

ヘロドトスは「歴史」を書いた。

大帝国ペルシアと、古代ギリシアのポリスの攻防を描いた 9巻にもおよぶ大著である。

家来であるギュアスが主人の妃に告げられる。

私と寝て主人を殺せという託宣。

リディア王への道は、魅惑と殺人の強制という茨道。

代々その罪と栄光の血の輪廻を語る第一巻。

同著の4巻では、スキタイの地について語る。

雄大なステップ、翔駆する馬。 強いスキタイ人のイメージが増幅する。

トゥヴァ共和国。 モンゴルの北方の地では、ラマ教を信仰するという。

チベットと距離があるが、同じラマ教を奉ずる国。

九州と青森。馬をめぐる思案は駆け巡る。 山口昌男の”中心と周縁”を思い出したがすぐに立ち去る。

トゥヴァ共和国ではスキタイの王の遺跡がみつかる。

馬の殉葬がみられるという。 馬と民族を愛するノマドたち。

オリエントを統一したダレイオスでさえも 手に入らなかったスキタイの土地。

ヘロドトスのペルシア帝国に対する驚きと思いは、 この地への興味となって躍動する。

突厥を描いた司馬遷も同じ興味だったのだろう。

騎馬民族の強壮な魅力には、とても憧れを抱く。

原初的な憧れといってもいいかもしれぬ。

日本では、古墳時代のことである。

邪馬台国には牛馬なし。とされている。

しかし古墳時代の5-6世紀には急に馬の飼育が発展する。

副葬品も戦闘的な意味あいをおびる。

古墳も竪穴から横穴に変化する。

騎馬民族が日本にきたのではないか。

もしかして、大和朝廷も騎馬民族ではなかったか、、、

江上波夫が戦後に唱えた騎馬民族学説である。

お歴々がいうように たしかに状況証拠しかないのかもしれぬ。

だが、国粋一色で疲弊した日本に活力を与えたかったのかもしれぬ。

司馬遷が李陵を擁護したほどには、 肉体的な切実さはないかもしれないが、

それなりの理由や情動があったのではなかったか。

馬並み家の店内には、 1980年代の曲が流れている。

ジャパニーズポップスが懐かしい。

よく考えると、妙な空間だ。

欄間の浮世絵が、なにかを語っている気がする。

流れる曲とのアンマッチで、たんなるオブジェにも思える。

でも、楽しい。

馬のモツ煮込みがきた。

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一緒に煮込まれた根菜にほのぼのとする。

馬鍋を桜鍋と名付けたのは、明治初期の東京だという。

牛鍋にあやかって、やってみたらいけた。

牛鍋ではない まがい物みたいな扱いが 見物のサクラにかけて桜鍋になったというが、本当のところはどうか。

馬は煮てもいける。 焼いてはどうかと、串焼きを頼んだ。

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草原で味わう肉料理のイメージ。

澄み渡る風の中で、火をおこし 肉の塊を直火で焼く。

ナイフで削って口へ運ぶ。

そんな味を彷彿とさせる実に野趣に富んだ味。

焼酎をあおる。

なんにもなかった大草原に どこからともなく、

人馬の一隊が現れ、

颯爽と立ち去ってく姿が目に浮かんだ。

帝国や王国の政権交代には、 血がともなう。

フロイトがエディプス(父殺し) を使ってそれを説明する。

しかしその説明は、シンボリックな生まれゆくものの プロセスに偏った見方だ。

クリステヴァは、生起をささえるもの 母なる海のような存在への視点の欠如を訴えた。

アブジェクシオンという概念は、 このコーラ(生起の受け皿)を支えるためにでてきた思想である。

父殺しをアブジェクシオンとして、 忌避しつつも、それを受け入れるもの。

リディア王の誕生にはカンタレス王の妃がいた。

テルケルという現代思想を推し進めた雑誌に 優秀なクリステヴァは参加する。

その編集長のソラリスの妻となる。 そして、出産をする。

生起するということは、生成を受け入れるものがあるのだ。

負なる父を支える母という視点。

これを訴えたのはこの出産を経験した以降のことである。

アブジェクシオンという難解な概念も 母なる視点をとりだすための装置なのである。

軍鶏もここの推し食材である。 シャモロックの皮ポン酢を頼んだ。

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ふっと、草原が消え 視界の中央には、焼酎のグラスが光った。

〆に卵焼きも追加した。

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この卵焼き。値段は結構するのだが納得の味である。

なんとも優しいのだ。

しかも色艶が優雅である。 シャモエッグイエロー!

馬とともに生きるノマドの勇壮と それを支える母のような優しさに思いを馳せた。

サラリーマンのアブジェクシオンである嫌な上司も 新橋では最近みかけない。

どことなくスマートな印象の上司が多くなった気もする。

あるいは、なにかに隠れてしまったのか。

もっと、アグレッシブなパンチの利いた 力強い御仁の登場を 母なる優しさで、

新橋は待っているのかもしれない。

参考:馬並み家 新橋

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