天使と悪魔 (前篇)

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あれから ヒロシは ほとんど口を利かなくなった。

娘ができてからますます張り切っていた引っ越し屋の仕事もやめた。

憔悴しきった夫を慰めたいと、つとめて明るく振る舞おうとするけど、ダメ。

気がつけばわたしが嗚咽している。

 憎い! わたしたちのカリンを奪ったあの悪魔が憎い。

 安置室で遺体に面会した時、ヒロシもわたしも思わず目を背けた。

「あれカリンじゃないよな?」

 

はじめ、ヒロシは半笑いだった。わたしもヒロシにつられて口元を緩めかける。

当然だ。 わたしたちの目の前に置かれていたのは一歳になったばかりの娘ではなく、 ただの肉の塊だったのだ。

右腕の上腕と左足だけがバランスをとるようにくっついていて あとはなかった。 頭部もなかった。

 

 わたしは必死にこらえて、カリンと認めないための証拠を目で探した 。

間もなく最悪の現実を呑みこまなくてはならないんだって分かりながらも。

恐ろしさが急激に身体中をかけめぐり、経験のない震えと悪寒に襲われる。

「サリ、だからあの時おれ言ったよな?! おいサリっ!」

ヒロシはわたしよりもほんの少しだけ早く、この事態を受け入れたのだと悟る。

その怒声が脆弱な堰を切ったかのように、彼は膝からくずれて むせび泣き始めた。

わたしはまだ泣けなかった。 けれど理解を拒否しようと唇を噛む一秒ごとに、くらくらして吐きそうになる。

「違うよ、カリンじゃないよ!」って、唱えるように、こみあげてくるものの全てを押さえつけていた。

 

わたしたちは一昨年の暮れまで、関内のクラブで働く仲間だった。

ヒロシは黒服で、わたしは毎週売上ベスト5に入る嬢。もちろん恋愛関係は御法度だ。

十二月、わたしはどうしてもあとヒト稼ぎをしてからオミズを上がるんだと、誓いを立てていた。

ヒロシのため、お腹にいるこの子のため。 わたしたちの幸せを叶えるためなら、どんな手段だって使う。

誰かを傷つけたって構うもんか。

「わたし永瀬さんのお嫁さんにしてもらおうかな」

 

×のついた四十過ぎオヤジをからかわない方がいい。

永瀬という男は、紳士的な口ぶりで、わたしの手をそっと握った。

「わたし……色恋の営業はしないよ」 永瀬は優しく微笑んで、明日も指名していいか、と尋ねる。

「ほんと?! うれしい! いいの?」

そうして下から覗き込むように男の眉間のあたりに視線を集中させる。

これで喰いつかない男なんていない。

その日から永瀬は、退店の日と決めていた大晦日までほぼ毎日店に現れた。

 

「サリ、あの客大丈夫か? あんまマジにさせんなって。ああいうアラフォーのオヤジはシツケーぞ」

ヒロシから、そんな内容の心配メールが何度も来る。

「大丈夫よ、わたしの愛しい黒服さん。ねえヒロシ、いっしょになったらこの子と頑張っていこーね」

そっと返信して、店内でアイコンタクトを交わすわたしたち。

他のキャストや黒服にも、もちろん客の永瀬にもバレやしない。

最後に永瀬と交わした言葉は、「良いお年を!」だった。

新年の出勤は八日からだと余計な嘘までついて……。

じゃあその日にお節コースを予約しておくから、フレンチのレストランで同伴出勤しよう。

渡したいモノがあるからどうしても、と。

結局要求に応える形を見せざるをえず、どうせ叶わぬ約束まで交わすはめになった。

 

さすがに心は痛んだが、予定通り大晦日限りで店仕舞い。

すぐにメアドも電話番号も変える。

もはや一文の価値もない携帯のアドレス帳はこれまでの歩みごとオールリセットし、

かつて客から贈られたブランドものなんかは洗い浚い換金した。

続く

by ケイ_大人

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話聴き屋 第三話(最終話)

写真 3

アーケードの店々がシャッターを下ろす深夜。

とある小さな時計屋の店先。

屋外スケッチ用の小さなチェアにちょこんと構え、折畳みのちゃぶ台に肘をついて、

いつ訪れるとも宛てのない来客を、彼は毎日待ち続けている。

客が腰かけるビールケースには、わずかなサービスとしてブランケットを添えて置く。

イーゼルに据えられた木パネルの口上看板には、先のキャッチコピーがつらつらと書かれている。

 その留守番というわけ。


「あの・・・ すみません。」
見上げると齢(よわい)五〇才、小太りのサラリーマン風が立っている 。

「森島さんは?」
えっと・・・、今トイレに。

「そうですか。」
じゃあ待たせてもらっていい? と、 おじさん。

「あっ どうぞ。」

なんか気まずい。困ったなあ。

「冷えてきましたよね 。」

と、おじさんは鶯色のハーフコートの襟を立たせた。

「わたし、坂田と言います。」

どうも。 あっ、でもわたし、ただ留守番頼まれただけで。

「そうですか。」

坂田はギュロとわたしの顔を覗きこむ。

嫌、そんな見ないでください。わたし、顔にコンプレックスあるから。

「ああ。 ぼくといっしょだ。」

おじさんは笑った。

よく見ると髭こそないけれど、えびすさんのようにふくよかで縁起のいい顔をしている。

それだけでもわたしの顔に比べたら羨ましいけど。

「会社の女の上司は、ぼくをトンカツって呼ぶんですよ。 太ってて、脂ぎってるからって。」

顎下の肉を摘まみ摘まみ、

「ケンタッキーて言われることもあります。まったく腹が立ちますよね。」

ってこぼしながらも、この顔から鬱々したものや怒りや憎しみは感じられない。

 丸顔ってやっぱり得よね。

 でも話聴き屋に用があるというのには、やはりなにかの訳があるはずよ。

確かにうっすらと困り事でもあるような感じはする。

 坂田さんはよく来るんです? ここに。

「ええ 時々ね。」

 へえ。わたしは今日初めて寄らせてもらって、 森島さんに今さっきまで聴いてもらっていたんですよ。

 すると坂田は少し驚いた様子で、

「あ、あー、そうでしたか。ぼくはてっきり 森島さんのお師匠さんかお弟子さんかと。」

 わたしはプッと吹き出す。 観音様のような顔になりたいもんだ。

「いや確かに森島さんは若いのに徳を積んだ顔をしてる。考えすぎたら損ですよって、訴えてるように。」

 上手い形容をする。言葉に変換すると確かにそうかな。

「だから時々ね、元気をもらうんです。もう直 ぼく、結婚しなくちゃならないから。」

 ほう。それは“幸せ”な話しではないか。どうして「しなくちゃならない」なんて、消沈してるのかしら。

金目当ての政略結婚? それとも外国人との偽装か?

 いずれにしても、めでたいことには違いないのだから、こんな吹きだまりのような場所に頼る意味などないのに。

 坂田の眉間に憂いの影がさす

「ぼく・・・、自信がないんです。」

          *

 彼女は葬儀プロデューサーという仕事をしています。

出会いはお袋の葬式で。 “死者の取り持つ縁”というやつですね。

ぼくは、官公庁のガイドブックを扱っている小さな出版社に勤めてましてね。

かれこれ四半世紀も、そんなお固い仕事に就いていますから、今までにパッと来る出会いがなくて・・・。

そりゃねえ、ぼくだってパートナーを真剣に探した時期もありましたよ。

親類や友人にもけっこう紹介してもらって。でもことごとく・・・、

「断られた?」

留守番の女は単刀直入にずいぶんと失礼ことを言います。

いやあ、その逆。

「ぎゃく?」

そう。ほとんどがぼくの方から御断り。

なんか土壇場になると、面倒になってしまってね。

「ふーん。」

と、女は訝しげな面持ちでちゃぶ台に頬杖をつきます。

「どうして、面倒?」

長く独りモンだから、ひとりって気が楽なんですよね。

好きに食って、好きに飲んで、好きに寝て。

「でも今回の彼女さんは違うんですね。結婚を決めたってことなら。」

葬儀屋の彼女はお袋のことで、本当に細かいことにまで世話を焼いてくれました。

だから、とても感謝の気持ちはあります。

四十九日が終わったら「食事にでもいきませんか?」って、ぼくの側から誘ったわけですしね・・・。

「坂田さん、なにを悩んでるの?」

          *

 そう尋ねると、坂田は暫時黙ってしまった。
 興味本位に余計な口をきいてしまったと、わたしは首を垂れる。

「彼女は本当にぼくみたいな冴えない男を好きになってくれていて・・・。」

 それは涙が出るほど有りがたいのだと。

「彼女は積極的にドンドン手続きを踏んでいく。いつ一緒に住んで、いつ届けを出して、いつ家具を買って・・・、と。でもなにか一つが決まっていくごとに、ぼくの心はますます渇いてしまってね、『ぜんぶ嘘!』って叫びたくなる。」

 なのに引き返せなくなっているのが、このおじさんの優しさ。いや弱さなのだ。

「けっきょく、共同生活というものをしたことがないから自信が持てないんだよなあ。」

 つまり、他人から受けとる気持ちに自信を持てないということなのね。

 わたしと同じだ。

 坂田はコッペパンのような両の手で頭を抱え、それからアーケードの天井を仰いだ。

「あっ・・・。」

 どうかしたの?

 坂田はまたさっきのようにわたしを覗き込んで、

「森島さん・・・。」

 そうだ。 用を足しに出かけた主はまだ帰らない。

「まだですかね? 遅いなあ。」

 同棲中の彼女が飯の支度をして待っているから。

痺れを切らした坂田は、森島宛てのメモを残して席を立った。メモにはこうあった。

「先日お約束した時間に参りましたが、今日は引き揚げます。でも今日は今日でよかったです。優秀なお弟子さんに話しを聴いてもらいましたので。」

 はあ?

 わたしは弟子でも師匠でもないと答えたはずだ。

「やあ、芳子さん、すみせん遅くなって。」

 見上げると、ほんのり赤らんだ森島が立っている。

 ちょっとちょっと! もしかして飲んできたの?

「すみません。我慢ができなくて。」

 森島は悪びれる色もなく、無邪気な笑顔で頭を掻いた。

「もう、あのさー。」

          *

 芳子は手帳の一ページを破ったメモ書きをぼくに差し出した。

「彼がここに来ること分かってて、席を外したの?」

 本当にねぶたの山車に乗っかりそうな形相で、芳子は下から睨みつける。

けれど、なにか緩んだものを確かに感じた。

 と次の瞬間、芳子は笑い出す。ぼくも堪えられずに吹き出してしまう。

二人はひとしきり腹を抱えて笑った。

「ありがとう、森島さん。ちょっと楽しかったわ。」

 ええ。

「あのおじさん、わたしなんかをあなたの弟子だと思って打ち明けてくれて。」

と、芳子は腰を上げる。

 ぼくは芳子に、話を聴いている時のあなたの顔、良い表情をしていましたよって、持ち上げた。

「えっ? じゃあ、さっきのやり取りを見物していたの?」

 ええ、あの物陰からちょっとだけね。と電柱のあたりを指差し、それからぼくはごめんなさいと詫びた。

「おかげで、すっかり冷えちゃったわよ。」

芳子はしばらくしゃがんでいたので窮屈だった、と、腰を伸ばした。

そう言えば、さっき赤ちょうちんのテレビでニュースをやっていてね、津軽は初雪ですってよ。

「そうか、もうそんな季節だよな・・・。」

          *

 正月には潔の子供にゲームソフトでも奮発するか。

「良かったらまた寄って下さい。」

と、観音様は千円札を一枚ありがたそうに受け取る。

ええ、きっとまた。

故郷の厳しい寒さも、今となれば懐かしい温もりなのかもしれない。

森島に手を振りながら、わたしはそんなことを考えていた。 
 
(完)

by ケイ_大人 

 

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話聴き屋 第二話

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「まるで道化師だ。」
森島は淋しそうに呟いた。

仕方がないのよ。

そうやって生きのびるしかなかったんだもの。

ママだってはじめは慰めようとしてくれていたけど、今は客と一緒になって笑うんだ。

でもね、いつまでやってけるのか最近不安が募るんですよ。

このまえ好きだった相手は、

「おれ嫁がいるからもうやめとくわ。ごめん。」
って。はじめは真剣に口説いてきてね、この人なら心も体も許して平気かな。

信用しかけて、三度かな、寝たのは。

そしたらある日突然ソレよ。しかもメールで。

わたしはもう女としての幸せは諦めちゃったわ。

でもさ、急に独り身の行く末が不安に思えてきてね。

そろそろ昼間の仕事も真面目に探さないと、って。

知り合いの小さい貿易会社で、“経理”の口があるの。

ウケルでしょ? わたし。


 森島にはウケなかった。

彼はおもむろに携帯で時間を見る。

あっ、もう時間ですか?

「いや、時間は大丈夫ですよ。あのう、申し訳ないんですが、ちょっとトイレに行きたいのでしばらく留守番を頼めますか?」

 はあ・・・。いいですけど。

「コンビニで借りるんですよ。」

と、森島はさっと立ちあがる。

「ぼくの貴重品があるから、こっち側に座っていてもらえませんか?」

 え?、でも・・・。
   
「心配しないで、すぐ戻りますから。」
 

『 貴方の心に溜まっているマイナスエネルギーを全てこのぼくに吐きだして下さい。

ぼくが貴方を浄化して差し上げます。愚痴、悩み、恨み・・・ヨロズの話、聴かせていただきます。

                     話聴き屋 森島 丈二 二八歳 』

続く

by ケイ_大人

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話聴き屋 第一話

写真 (7)

「芳子は優しい子なんだけど、顔があれだからな。」

去年やっと死んでくれた忠おじちゃんが、酔っ払ってくだを巻いたのは二十年も前の正月。

家族親戚全員が 大爺を囲む恒例の宴だったわ。

まだ中二のいたいけな田舎娘は、大人の会話になんか関心の「か」の字もなかったけれど、

忠おじちゃんの不躾な発言にピクンと反応したの。

「もうあなたこんな大勢の前で可哀そうじゃない。」

と、腕(かいな)を制する里子おばちゃん の一言が、

余計火に油を注ぐ。

“それは私の台詞だ。” と手元のアップルジュースをぶちまけるより早く、

今度はお母ちゃんが、

「まったくねえ、ねぶたの山車にでも乗るかしら。」

だって。

わたしは悔しくて、赤面するよりほかなかった

「お姉ちゃん、遊ぼう。」

 大方お年玉の集金を終え、そろそろ大人の集いにあきた弟の潔が、無邪気にすりよってくる。

「うるさい!」

 わたしはまだ小さい潔を、思い切りはたき落とした。

 一瞬、場が静まりかえって、たちまち潔はわっと泣き出したの。

 いまから思えば潔は私の代わりに泣いてくれたようなものね。

(中学を出たら、すぐ東京に出てやる。もう凍え死にそうな津軽平野にはうんざりだ。)

と、わたしはそのとき決意したんだ。

 とはいっても、結局中卒で上京なんて許されるはずもなく、こころざし中途半端に商業高校へ進学し、

いつか役に立つかもと地味に簿記でも始めてみたけど、本当に地味すぎてすぐに放り出した。

この顔で“経理”じゃあ、ハマリすぎていて笑い者になるわよ。

 次にわたしは、なりふり構わず処女を捨てたくなって血が騒いだの。

当時流行り出した出会い系を漁って、知り合った左官工の男とやった。

実際喰いついてみると、こんなもんかって感じだったけど。ただ痛いだけでね。

 なのに健気で純朴な女子高生は、

「また会おうね。」

と、左官の掌をウルウルと握りしめた。

 ねえ! そしたら何だと思います?

「チェッ」

って、舌打ち。しかもわたしがシャワー行ってる隙にバックレやがんの。

 渡された一万円でラブホの勘定はなんとかなるけど、アッタマきて、

「●●って男、下手くそ!! わたしの処女かえせ!」

“旅の恥は書き捨て”ノートに、実名入りで ばらしてやったわよ。

 森島という男はずっと目を細めていた。わたしの他愛ない昔話にただ耳を傾けて付き合ってくれていた。

東京で最初に勤めたのは高島屋の地下の惣菜売り場でした。

そこで三年は頑張ったかな。

でもある日、好意を持っていた同僚が、別の女子と結婚することになったと耳にする。

わたし辛くって、泣く泣く三日後に辞表を出したの。

 すぐおけらになっちゃってね、急場歌舞伎町のファッションヘルスに入店したけれど、
店長に

「君には無理だね、客が付かない。」

そう烙印を押されて、一週間で荷物をまとめた。

「へえ、そりゃ堪えるなあ。」

 森島が初めて間の手らしい台詞を挟んだ。

 それからしばらくフラフラしてたら、今の店のママが拾ってくれたの。

「あんた顔はダメだけど愛嬌あるし。」

まだ二一才と若いから、水商売をやってみないかって。

もう笑うしかなかった。
(そういうことゆっちゃうのって、青森県民だけじゃないんだ。)

東京でも同じなら、どこに出てもきっと弘前と変わらない。

恨む相手は、わたしを馬鹿にする他の誰かじゃなくて、この顔に生まれた自分自身なのね。

やっぱりそれまでは、わたしのキャラクターってもんを認めたくなかったんだよ。

認めたら、負けのような気がして。

 普通に扱われたい。普通に恋愛もしたい。

この世界にはわたしの顔を見て笑う人ばかりじゃないはず。そう信じたかった。

 森島は黙って頷いた。どこかの観音様のように優しい表情で、

「失礼だけど、芳子さんは今おいくつですか?」

と尋ねる。

三一です。

「では足かけ一〇年ですか? 夜のお仕事。」

そう。なんだかんだでね。

化粧はわざと派手にして、ちょっと若い子とはズレた服で仕事をするの。

そうすると、客はわたしをいじって面白がるでしょ

続く

by ケイ_大人

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豆腐の味 第三話(最終話)

 

写真 (3)

駅から十分ほどの丸いポストのある街角に、三代続けてきた豆腐屋があります。

伸介君が守る“金森豆腐店”。

「遠路、本当によく来てくれたね。」

由起子もきっと喜んでいるはずだと、伸介君は深々と頭を下げました。

わずかな供物と白いグラジオラスの上がった後飾り壇に向き合い、

遺影と白木の位牌に、わたしは線香を手向けます。

「伸介君、大変だったでしょ。」

長年の介護の苦労を察するには余りある。

わたしはそう労いました。

「辛かったのは由起子だから。」

看病の弱音を一切吐くまいと、彼は自らを律してきたというのです。

「ところで智恵子さん、どうかうちのおぼろ豆腐を食べていってくれないか?」

ユッコが一番に好んだこの味をわたしにもてなすことが、

何よりも妻の供養になるのですって。

店先から通じる表座敷にも、豆と豆乳の匂い、

菜種油とゴマ油で揚げた油揚げの匂いが漂っています。

東京の暮らしですっかり馴染みのなくなった素朴な生活香は、

向こうにいるユッコが「そうしていってほしい。」と誘っているサインのようです。

「春に花を見にいってね、おぼろ豆腐をさじで掬って口に入れてやったら、すごく喜んでね。久しぶりに由起子の笑顔を見たなあって。」

わたしは表情を崩しませんでした。

伸介君とユッコの深い愛の絆が、ふれてはいけないサンクチュアリだと直に知らされたからです。

「あ、ごめん。智恵子さんには耳心地のいい話じゃないよね。」

伸介君はわたしの殊勝顔を仏頂面と取り違えてしまったらしい。

わたしは急いで、今さら嫉妬する気持ちはないと首を横に振りました。

「ユッコは伸介君と一緒になれて幸せだったのね。」

「ぼくも幸せだったよ。ぼくも・・・。」

「わたしはあの頃、たしかにユッコを愛していました。」

当時、同性だった自分たちのさだめをどれだけ恨んだことだったか。

「それは、ユッコも同じ気持ちだった。」

でもユッコはあなたを選び、わたしと別れた。

どんなに愛し合っていても、幸せにはなれないんだよ。

ユッコにそう告げられたことを、今でも忘れてはいません。

「悲しかった。」 それに悔しかった。

伸介君、あなたが男だったというだけで、 わたしのユッコを奪ったことを、どんなに恨んだことでしょう。

「でも、もう遠い昔の話だしね。」

その時わたしの浮かべた笑顔は、きっと脱力して緩んだものだったに違いありません。

心のどこかに長い間ひっかかっていたものがやっと外れてくれたのですから。

「・・・。」

伸介君は目頭に光るものを貯め、黙って聞いていました。

彼は、決して謝ることはしません。

わたしを見つめるまっすぐな視線は、「選んだ生き方に悔いはなし」という確かな信念を物語っていました。

「ねえ智恵子さん。えっと・・・チャコちゃんって呼んでいいかな。」

伸介君はさっと立ちあがりました。

「別にいいけど・・・。」

「待ってて、今よそってくるから。」

彼はちょっと照れくさそうに、そそくさと店に降りていく。

そして湯気立つ大鍋から おぼろ豆腐をお椀に汲んでいます。

ユッコはあの背中を愛したのか・・・。

わたしは今から口にする味を生涯忘れないでいようと心に誓いました。

故郷、物井の味として。かけがえのない青春の香として。

「さあチャコちゃん、どうぞ出来立てですから。」

ふうふうと吹きながらいただきます。

豆腐も豆スープも渾然一体となりのどを通っていく。

食べるのではなく、あっという間に飲み干してしまうというこの感覚。

「美味しい。」

 わたしは素直な破顔一笑を隠しませんでした。

そしてこの時、手を叩いて嬉しがるユッコの幻影をすぐ近くに見たような気がします。

(完)

by ケイ_大人

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豆腐の味 第二話

写真

伸介君の手紙にはこうありました。

「あなたが東京に越して暫くして・・・」

それは高校三年の夏のことです。

「由起子は随分と塞ぎがちでした。智恵子さんを裏切ってしまった事実を気に病んでいたから、今で言う鬱の症状かと・・・。」

二人が付き合い始めたのは、その年の春でした。

家業の豆腐屋を継ぐことを早くから決めていた伸介君と、

地元の信用金庫に親戚の伝手で入ることにしていたユッコは、

社会人としての未来を相談しているうちに、そういう仲になってしまったのです。

「ところが、由起子は成人した時分からしだいに物忘れが酷くなり、

日付や自分のいる場所が分からなくなるというようなことも増えてきました。」

“若年性アルツハイマー”。夫となった伸介君が告げられた妻の病名です。

けれど日々薄れていく記憶の中で、“チャコ”っていうわたしのあだ名だけは忘れまいと、最後までユッコは呟いていた。

そう伸介君は明かしてくれました。

「間もなく由起子の四十九日法要を済ませます。乞う義理ではないのですが、彼女が浄土に旅立つ前に、どうか会いに来てやっていただけないでしょうか?」

 これは彼女にしてやれる夫としての最後の仕事なのです。そんな真摯な言葉で手紙は結ばれていました。

 初夏のベトつくような暑ささえ忘れ、わたしは反対側のホームのベンチで何台かの上り電車をやり過ごしていました。

 ふと気付くと、隣に中学生くらいの女の子が二人、並んで座っています。

二人は無言で手を握り合っている。東京行きの快速電車がやってきた時、その手が解けて、一人が立ち上がりました。

「じゃあ。」

「うん。じゃあ。」

その光景はまるで昔観た映画みたいに、かすれた茜色の一コマたちが連続して映っているようでした。

わたしはやっと腰を上げる決心がつきました。

ユッコの心と、再び繋がることができるものか、ありのままの自分の気持ちを確かめてみる気持ちになったのです。

続く

by ケイ_大人

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豆腐の味 第一話

写真 (2)

「智恵子さん、二七年前を覚えていますか。金森伸介です。」

実家に届いたこの手紙の封を開けた刹那、

錆びついた歯車がガリガリと窮屈な音を立てて回り始めました。

過ぎ去りし時間が慌ただしく巻き戻る。

すると、君の残影がゆらゆらと近づいてきて、

柔らかな木漏れ日の下で邂逅しました。

「きっとあなたは幸せにお過ごしのことと思い・・・」

差出人が見知らぬ男では迷惑じゃないかと、

“千葉県立四街道南高等学校 第三二回生同窓会のご案内”って御丁寧な表書きを添えて。

それから穴が開くほどわたしは読み返しました。

彼はまだ苦しんでいるのかもしれないけど。

夫と子供たちと、幸せの形を築いてきた今のわたしにとって、

あの頃の出来事は、もはやほろ苦い思い出に昇華しています。

「伸介君たちには、わたしの許しが本当に必要ですか?」

わたしはそう手紙に問いかけました。

あれから何度も何度も問いかけて、返書をしたためては破り捨てました。

「まもなく物井に到着いたします。」

車内アナウンスの声が遠くで聞こえて、わたしは伏せた視線を車窓にやりました。

まぶしい青田。

「あの頃のままだわ。」

夕映えの農道をユッコの漕ぐ自転車の後ろに乗って、口笛を吹いた季節。

「ここまでは来たけれど・・・。」

今さらユッコの霊前に手を合わせることに何の意味があるのか、私にはまだ解けないでいました。

伸介君とユッコがたとえ救われたとしても、わたしに残るのは虚しさだけかもしれないのです。

伸介君がユッコと付き合い始めたことを聞いて、

「もう沢山だ。」

と、母にぶつけて泣いていた当時の自分を思い出します。

いちいち説明などは求めずに、我が娘の傷心を察した母は、

「涙したら余計惨めになるだけ。東京に越したらきっと忘れちゃうんだから。」と、

その度一笑に付すのでした。

田舎育ちの純真な高校生が、心から愛する人の裏切りなどを想像できたはずはありません。

「さてと。」

木造時の面影など微塵も残されていない物井駅のホーム。

「やっぱり帰ろうか?」

総武線を降りたとて、まだ迷いのブランコに激しく揺られていたわたしは、暫時佇んでいました。

続く

by ケイ_大人

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。