浮惑なカモメ 第一話

第一章 (1)

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「怖いよ。あゆむがいない日はなかったんだよ」

嗚咽して震える玲子を前にして、ぼくはじっと俯くしかなかった。

眠たげにリビングを見下ろす鳩時計が、カチカチと張り詰めた空気を刻んでいる。

「こんなに長い間いっしょにいたんだよ。あたしのことは可哀想じゃないの?」

「……」

「ねぇ……、答えてよ」

アウトレットモールで買ってきたピンクのランチマットに水溜りができそうだ。

玲子の涙がテーブルにぽたぽたと落ちている。

重たい頭を細くて白い両腕がようやく支えていて、

しなやかな指と指の間に柔らかい髪の毛がずるずると巻き込まれていく。 

ぼくは、一言ずつ言葉を選んで絞り出す。

玲子が十九で、 ぼくは二十のときに将来を誓い、

互いの存在は青春の輝きそのものだったということ。

幾度のすれ違いを乗り越えて、籍を入れるまでに五年もかかってしまい、

入籍が単に通過儀礼的になってしまったこと。

「そんな評論家みたいにゆわないでほしい。あたしだって……」

冷静にぼくらの成り行きを語ることくらい簡単だろう。

「結婚してからの三年間、あゆむのことだけを思って頑張った。
料理も覚えた、二人で働いて、お金も貯めて、旅行も企画して……」

きみは最高に素晴らしいパートナーだ。

「ねえ、恵美って子が、そんなに好きなの? あたしじゃもうダメなの?」

 


恵美と はじめて出会ったのは、一年前。

秋風が寒い夕方の野毛通りだった。

たしかその時、老夫婦が停留所でバスを待っていた。

その傍らで、ぼくは佇んでいた。

「遅いわねえ」

老婦人のつぶやきに軽く相槌を打っておく。

ほどなく、遠くの赤信号の下にバスの行き先表示板が現れた。

「すっかり冷えてしまったわ」と、ぼやきぼやき手の甲を摩っているが、

この婦人の皮肉調はいったい誰に向けられたものなのか、と、ぼくは首をかしげた。

どうでもいいことなんだが、そんなことでも考えていなければ、

妻への罪悪感を紛らわすことができないのを畏れている。

これから名も知らない男が、名も知らない女を連れてくる。

金を払って夢を見ようというのに、うつつに返っているのなら野暮ってもんじゃじゃないか。

今頃、玲子は帰宅ラッシュの渦に呑みこまれているだろうし、

汚くて臭い人ごみに押しつぶされそうになるのを必死に耐えながら晩の献立でも考えているのだろう。

 

「あら、お兄さんは乗らないの?」

上品な問いかけだったが、ぼくはもう何も答えなかった。

この期に及んでまでそんなことを想って後ろ髪を引かれている自分が優柔不断で情けなかったからだ。

 


夫婦を乗せたバスが行ってしまって、足元から長く伸びた自分の影を遠い目で見つめている。

「あのう……、お待たせしました」

突然ぼくの影に、二人の影が浸食した。

「マイさんです」

牛売りってこういうものかもしれない。 ぼくは名も知らない男に礼を渡す。

売られる雌牛は悲しい目をしていた。

けれど牛ではない。女だ。

上気した。と同時に、これは切なさの沁みる買い物だと学んだ。

「よろしく」

マイは目を合わすことなく、ぼくの手を取る。

早くここから離れようよと、力を込めた。

「ぼくはこういう遊びが初めてで、勝手がよく……」

 マイはそれには何も答えずに手を引いた。掌は冷えていた。柔らかくて渇いていた。

ぼくは玲子の手の瑞々しさを想う。 

バス通りから二辻ほど奥。その場所は、この女を抱くために用意されている。

でも、そこは目的地ではなかった。今から思えば、ラビリンスへの入り口だったんだ。

「マイさん……といったよね?」

「ううん」

「……?」

「うちの名前は恵美だよ」

ぼそぼそと否定するから、余計に横顔が陰って見えた。

でも、その頬は紅潮している。

ぼくの目は恵美の赤らみを間違いなく捉えたのだ。

この女は緊張しているのか、恥ずかしがっているのか、それともぼくを一目で気に入ったのか、

なんにしても経験を重ねた娼婦とはこの時露も察すことなどできなかったわけで、

初心な女の身悶えを妄想してぼくはすでに勃起していた。




 

「あたしは……、あたしは……」

玲子の頬は渇く暇もなく、何か言葉を継ごうすればそれがすぐ灰になって落ちてしまうのを嫌うよう
に言い淀んだ。

「ごめん」

 と、ぼくはもう何度も謝っている。

「玲子を愛してるよ。そして、ぼくが愛されているのもちゃんと分かっている。

でも何かがぼくらには欠けている」

ぼくはきみにダイヤモンドをプレゼントしたけれど、それ以上のものはあげられなかった。

きみはバカンスの企画を立ててくれたけど、ぼくはきみとこの部屋でセックスがしたかった。

きみが誘う時、ぼくは背を向けて、ぼくがしたい時、きみが背を向けた。

いつのまにか互いが幸せの価値をバラバラに抱き始めてしまっていた。

いや、それは結婚する以前、もうずいぶんと前からとうに分かっていたことなんだけど、

結婚という一つの型になんとか収められていくだろう、って。

「玲子と恵美を比べたりはできないよ」

玲子がもっと幸せになるため、ぼくがもっと自分らしくいるため。

「そんなの!」

綺麗ごとだろうと、玲子は声を荒げる。

 その刹那、緩慢な鳩が、申し訳なさそうに十二回鳴いた。

 

つづく

 

by ケイ_大人

 

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これまでのコメント

  1. キズナ♡ より:

    クオリアリズムの皆さんへ☆
    初めまして。いつも小説楽しみにしております。短編や長編など形も様々ですが、回を重ねるごとに濃い内容になってきましたね。普段通勤時間を利用して小説を読んでいるので、隣の人に見られていないかと、時折恥ずかしさを感じます//今回の作品がまさにそれでした(笑)言葉って耳で聞くのもそうですが、字に起こした時のほうがインパクトがあるように思います。私だけでしょうか…?(笑)続編も楽しみにしております。

  2. 大人 より:

    キズナ様
    ケイ_大人です。
    コメントへのお礼がこのように遅くなり、
    ごめんなさい。
    いつもご愛読、心から感謝いたします。

    これからも通勤のお供に楽しんで下さいましたら
    幸いです。
    どうぞ宜しくお願い申し上げます^_^

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自分のために~誰かのために、言葉とセンテンスの職人でありたいと 日々精進しているところです。

言葉から命を吹き込まれた語り人たる登場人物たちが、いつのまにかぼくから離れて個を象るとき、読者の皆様の傍にそっと寄り添わせてやってくださいませ。

あなたが死にたいくらいの時、彼らが少しの役にでもなるなら…

ぼくの幸せです。