馬並み家

-vol.7- □■草原のフォークロア■□

ーー2012年11月17日来訪ーー

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江戸を匂わせる風情の店内には、

なぜか 浮世絵、それも春画のたぐいが 欄間の部分に配してある。

今夜は、馬肉をたべて精力をつけようとして この「馬並み家」に入ってきたのだ。

馬肉といえば、信州とか熊本とかだが、 ここは、青森産を供する。

スタミナ料理には、焼酎。

富乃宝山を頼んだ。

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お通しは、シャモロック焼とほうれん草のおひたし。

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シャモロックの歯ごたえと おひたしの優しさが絶妙だ。

女性からみると欄間の春画や、 背広をかけるところが、

天狗の鼻になっている隠喩も ”おぞましきもの”なのかもしれない。

クリステヴァの「恐怖の権力」が出たのは1984年。

”おぞましさ”の意味作用をアブジェクションと定義し、

その意味作用の穢れ-清め、魅力-嫌悪といった裏腹の関係を論じた。

アブジェクシオンは、 自分がただ忌避していて、そこから避難できるものは対象としていない。

しかしながら、忌避しているのにもかかわらず、身近にあるものをとりあげる。

なんでこんな難解な概念を定義するのか、それには理由があった。

牛馬は、中国では食用は禁忌している。

フォークロア的には、あれは父母の生まれ変わりなのだからというらしい。

仏教で牛馬は聖なる動物であるのだ。 豚や鳥ならよい。

中国でマクドナルドよりもケンタッキーが流行るのはこのためである。

一方で、 アメリカでは、侮蔑言葉として”子犬”が出てくる。

イスラムで豚は禁忌される。

この理由として、ある文化人類学者は分類法を持ち出す。

聖なるもの、遠くにあるもの、身近なもの。そのどれでもないもの。

このうち、どれでもないものがタブーとなる。というのだ。

たとえばオオカミは、遠くにあるものとして、禁忌対象とはならない。

中間的で座りが悪く、気持ちが悪いという意味作用がはたらくのではないか、、、

そんな構造的な解釈なのだ。

イスラムにとって豚は、中間的存在ゆえに、けがらわしいと感じる。

分類不能だから禁忌したということであるが、

それは、その土地や積年の習慣に触れないと、実感が沸かない。

タブーとまではいかないが、 生食を嫌う人も少なくない。

科学的な安全性の問題もある。

ユッケをめぐる騒動のせいで、牛の生食はタブーとなった。

今年の夏以降、生レバーは料理店では出せないのだ。

新江古田駅が最寄といっても徒歩15分以上歩くのだが、 ”やっちゃん”という店がある。

なぜこんな辺鄙な場所にと思うのだが、美味なる生食の肉を出す店である。

安全性確保のために精を出して頑張ってきた店も、法の一律性からは逃れられない。

今はどうしているのだろうか。

少しだけ照度を落とした店内で、思いをめぐらしていると、

グラスの氷がコトリと動いた。

それを合図のように、 馬刺しがきた。

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白いのが、コーネといわれるタテガミの部分。

ねっとりとした食感の中に旨みが広がる。

くどさはまるでない。

化粧品、薬にも使う馬の油。

しつこくなくさらっとした感覚さえも浮かぶうまさだ。

フタエゴは、ばら肉の部分。 カルビといったらよいのか。

上品な脂と赤身の妙なる重奏。

富乃宝山をいく。

富乃宝山は、 温度管理を清酒なみに徹底した黄麹をつかって醸造する。

これが芳香につながる。

やはりロックが一番だ。

喉を焼いて通る。 ふぅーと酒気の香りがせりあがる。

嘆息するほどの愉悦だ。

今度は赤身。 うなってしまう。とにかく、うまいのだ。

新鮮さが売りだけあって 肉質の良さがそのまま伝わる。 食べるほどに食欲が出る。

なるほど馬肉は薬なのだ。

芋焼酎に変えて、 もう少し味わうこととした。

野性味がなんとも、胃と心に喝をくれる。 力強い。けど、優しい。

ふと。昔人に思いをはせる。

ヘロドトスは「歴史」を書いた。

大帝国ペルシアと、古代ギリシアのポリスの攻防を描いた 9巻にもおよぶ大著である。

家来であるギュアスが主人の妃に告げられる。

私と寝て主人を殺せという託宣。

リディア王への道は、魅惑と殺人の強制という茨道。

代々その罪と栄光の血の輪廻を語る第一巻。

同著の4巻では、スキタイの地について語る。

雄大なステップ、翔駆する馬。 強いスキタイ人のイメージが増幅する。

トゥヴァ共和国。 モンゴルの北方の地では、ラマ教を信仰するという。

チベットと距離があるが、同じラマ教を奉ずる国。

九州と青森。馬をめぐる思案は駆け巡る。 山口昌男の”中心と周縁”を思い出したがすぐに立ち去る。

トゥヴァ共和国ではスキタイの王の遺跡がみつかる。

馬の殉葬がみられるという。 馬と民族を愛するノマドたち。

オリエントを統一したダレイオスでさえも 手に入らなかったスキタイの土地。

ヘロドトスのペルシア帝国に対する驚きと思いは、 この地への興味となって躍動する。

突厥を描いた司馬遷も同じ興味だったのだろう。

騎馬民族の強壮な魅力には、とても憧れを抱く。

原初的な憧れといってもいいかもしれぬ。

日本では、古墳時代のことである。

邪馬台国には牛馬なし。とされている。

しかし古墳時代の5-6世紀には急に馬の飼育が発展する。

副葬品も戦闘的な意味あいをおびる。

古墳も竪穴から横穴に変化する。

騎馬民族が日本にきたのではないか。

もしかして、大和朝廷も騎馬民族ではなかったか、、、

江上波夫が戦後に唱えた騎馬民族学説である。

お歴々がいうように たしかに状況証拠しかないのかもしれぬ。

だが、国粋一色で疲弊した日本に活力を与えたかったのかもしれぬ。

司馬遷が李陵を擁護したほどには、 肉体的な切実さはないかもしれないが、

それなりの理由や情動があったのではなかったか。

馬並み家の店内には、 1980年代の曲が流れている。

ジャパニーズポップスが懐かしい。

よく考えると、妙な空間だ。

欄間の浮世絵が、なにかを語っている気がする。

流れる曲とのアンマッチで、たんなるオブジェにも思える。

でも、楽しい。

馬のモツ煮込みがきた。

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一緒に煮込まれた根菜にほのぼのとする。

馬鍋を桜鍋と名付けたのは、明治初期の東京だという。

牛鍋にあやかって、やってみたらいけた。

牛鍋ではない まがい物みたいな扱いが 見物のサクラにかけて桜鍋になったというが、本当のところはどうか。

馬は煮てもいける。 焼いてはどうかと、串焼きを頼んだ。

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草原で味わう肉料理のイメージ。

澄み渡る風の中で、火をおこし 肉の塊を直火で焼く。

ナイフで削って口へ運ぶ。

そんな味を彷彿とさせる実に野趣に富んだ味。

焼酎をあおる。

なんにもなかった大草原に どこからともなく、

人馬の一隊が現れ、

颯爽と立ち去ってく姿が目に浮かんだ。

帝国や王国の政権交代には、 血がともなう。

フロイトがエディプス(父殺し) を使ってそれを説明する。

しかしその説明は、シンボリックな生まれゆくものの プロセスに偏った見方だ。

クリステヴァは、生起をささえるもの 母なる海のような存在への視点の欠如を訴えた。

アブジェクシオンという概念は、 このコーラ(生起の受け皿)を支えるためにでてきた思想である。

父殺しをアブジェクシオンとして、 忌避しつつも、それを受け入れるもの。

リディア王の誕生にはカンタレス王の妃がいた。

テルケルという現代思想を推し進めた雑誌に 優秀なクリステヴァは参加する。

その編集長のソラリスの妻となる。 そして、出産をする。

生起するということは、生成を受け入れるものがあるのだ。

負なる父を支える母という視点。

これを訴えたのはこの出産を経験した以降のことである。

アブジェクシオンという難解な概念も 母なる視点をとりだすための装置なのである。

軍鶏もここの推し食材である。 シャモロックの皮ポン酢を頼んだ。

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ふっと、草原が消え 視界の中央には、焼酎のグラスが光った。

〆に卵焼きも追加した。

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この卵焼き。値段は結構するのだが納得の味である。

なんとも優しいのだ。

しかも色艶が優雅である。 シャモエッグイエロー!

馬とともに生きるノマドの勇壮と それを支える母のような優しさに思いを馳せた。

サラリーマンのアブジェクシオンである嫌な上司も 新橋では最近みかけない。

どことなくスマートな印象の上司が多くなった気もする。

あるいは、なにかに隠れてしまったのか。

もっと、アグレッシブなパンチの利いた 力強い御仁の登場を 母なる優しさで、

新橋は待っているのかもしれない。

参考:馬並み家 新橋

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とんかつ 明石

-vol.6- □■青春のとんかつ■□

ーー2012年9月15日来訪ーー

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一枚のカツレツが少年を虜にした。
感動が彼を上京させ、料理人になることを決意させ、
やがては、”天皇の料理番”といわれる。

秋山篤蔵その人である。

その一生は、彼を偲ぶ会(秋偲会)が結成されることからみても、
ひとかどの大人物であろうことがわかる。
1980年にその一生がドラマとなった。
堺正章の熱演が光った。

明治時代の話であるから、今と比べても修業は封建的で、
厳しかったことであろう。さすがの篤蔵も、修業場所の精養軒を去って、
場末の料理屋に逃げ込む。
印象に残っているのは、その場末に恩師の宇佐美シェフ(財津一郎が演じた)
が訪ねていくシーンである。

宇佐美シェフは、カツレツを注文する。
食べているところを、篤蔵が盗み見て、恐る恐る声をかける。
「どうですか、自分の作った料理は、、、」
にべもなく、一喝が返ってくる。
「なんだ、このキャベツの盛り方は、これが本当にお前の料理なのか!」

この言葉に打ちひしがれ、そして気づかされて篤蔵は精養軒に戻り、
フランスは、パリの名門Hotelリッツへ洋学する決心をするのである。
宇佐美シェフとの出会いがなければ、篤蔵の出世はなかったであろう。

昨日 私は学芸大学駅の千本桜ホールで、「オーディション」という演劇を観た。
知人から太田みゆきという女優さんを紹介され、観にいったのである。

コメディタッチの演目であったが、清楚で穏やかな雰囲気を持つ彼女が、
身体を張って演じている姿は、たしかに素晴らしいものがあった。
圧倒するわけでなく、醸し出す雰囲気が存在感を醸し出す女優さんだ。

スターを目指す志のものが、必ず通るオーディションが舞台。
そこで繰り広げらる笑いと感動。
演者の皆さん自分自身との思いも重なる題材であったことだろう。
素のままの等身大の演技が一人一人 、
自らの想いを反芻するかのように輻輳的であった。
全体としては、正直、笑っぱなしということはなく、
また、打ち震えて感動を覚えたわけではない。

初日で緊張感があったのかもしれぬが、リズムを作り出すのに、
やや力任せのところもったように思えた。
が、しかし
帰りの東横線のなかで、とらわれ人となっている自分がいた。
劇のことが、ずっと離れないのである。
ある種の苦しさとともに、ボディブローのように湧き上がる感情に、
陶然としてしまったのだ。

その苦しさとは、若く溢れくる欲望と、
拗ねた諦観の狭間で揺れる自分そのものの存在の矛盾。
デカダンスの陶酔に憧れながらも社会人の扉をたたいた自分の姿も浮かんできた。
歯痒さと、時を経て得た根拠のない余裕のポーズと怠惰のアンバランスにも気づかされたのかもしれぬ。

居酒屋の良さがまだ早く、オシャレな場所にも面倒で、
ついつい、丼ものや、定食屋に入ってしまうそんな 若い時代、
とんかつ はご馳走である。

そして、高級と大衆の狭間に漂う存在なのである。

高級というと、すぐ浮かぶのは、上野の御三家 「双葉」「ポン多」「蓬莱や」である。

上野になぜか多い とんかつ店の中のビッグ3である。

「ポン多」が創業明治38年と最も古い。
「ポン多」と「蓬莱」が低温揚げ、100度という低い温度でじっくりと揚げ、
仕上げに高温でカラッとさせる製法。
「双葉」と「ぽん多」はロースかつ しか出さないこだわり、
「蓬莱」は、ヒレの元祖と謂われている。
こういった重役級のとんかつは、値段が張る。
サラリーマンになりたての頃、和幸、さぼてんのような店にたまに入り、
不足しがちな野菜をキャベツをお代わりして補い、
普段の空腹感の腹いせにご飯をお代わりして、空虚さを満たしていた。

今時は経ち、そう言った食べ方は胃が持たなくなってしまったが、
たまには とんかつが食べたくなり、
ニュー新橋ビルの4階の「明石(あかいし)」にやってきた。

まずは、ビールと板わさで、主役の登場を待つ。
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そもそも、とんかつは、日本料理。
元の料理が、小麦粉をまぶした仔牛の切り身をフライパンで焼いたカツレツ(côtelette)が元の料理で、厚切りの豚肉を衣をつけて揚げるようにアレンジした。
とんかつという呼称は、新宿の「王ろじ」が、最初だという。

衣を纏うので、サクッという食感とともに、香ばしさが加わり、
旨味が逃げ出すのを防ぐ。
大衆に人気が出たのは、ソースをかけるという食べ方が大事な要素に思える。
そしてなによりも、揚げ物の温度であろう。熱々をハフハフいいながら食べる。
中から肉汁が溢れ出す。
この、サクッ、ハフ、ジュワが、とんかつの魅力である。

出てきた。

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キャベツは、(ロースの場合)別盛りになっている。

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味噌汁は、なめこ、ワカメ、豚汁の3種から選ぶ。

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(写真は豚汁)

置いてあった藻塩で、食べてみる。
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美味い。

雁屋 哲の小説
「美味しんぼ探偵局」の中で
大東が 大衆食堂の 薄いとんかつを絶賛しているところがあるが、
とんかつは、純然に肉のうまさを追求するのでなく、
厚切り肉を頬張る勢いがやはり欲しい。

ここの衣は薄い。

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剥がれるということは決してなく、文句なく美味しい食感を与えてくれている。

健康のため、衣を剥がして食べる人もいるが、
とんかつの魅力は、過剰ということにあると思う。

無駄に厚い肉を、熱々のまま 頬張る。
それだけで、活気があふれる。

「オーディション」の俳優さんたちの演技もある意味過剰だった。
声を張り、大げさに振る舞い、繰り返す。

自分の夢に向かって純粋な気持ちと、
それを取り巻く人間関係との矛盾。
殻を破ろうと必死になり、もがく姿こそ、”過剰”そのものだ。巧妙さ冷静さだけでは、
人を感動させることはできない。
若き日々の過ち、遠回り、挫折という過剰と相まって感動を生む。

「うまくいかないときがあってもいいんだ」

劇中のセリフにうなづきながら、とんかつを頬張った。
逃げたけど、勇気を出して戻った秋山篤蔵を想起したのだ。

新橋のランドマークに ひっそりとある 明石。
ぜひまた来ようと思う。
次回は、何かを乗り越えたご褒美として。

参考:とんかつ 明石

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そば処 かめや

-vol.5- □■明日へ向かう帰り道■□

ーー2012年8月25日来訪ーー

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仕事に生きがいや自己実現の場を求める人がいる。
どういう仕事であれ、また、趣味であっても
生きがいを持てたその人こそ幸せであろうと思う。

サラリーマンという仕事に誇りを持つ人もいるだろうが、
そうでない人も違う具合に誇りをもって欲しいと思う。

サラリーマンの悲哀と誇り。
それに気づいたのは、新橋という場所に来てからだろう。
私はサラリーマンにエールを送り続けようと思う。


今夜も居酒屋の暖簾をくぐり、
自分探しの真似事をするのだが、最初から答えは風に吹かれている。


くぐれば、こんな声が飛び込んでくる。

「あの部長だけはほんとにしょうがないよ!」

お決まりの科白(クリシェ)。
会社でいったら ”おおごと” である。
だから、ここで叫ぶ。

私の若いころは、(こんなことを書くと叱られるかもしれないが)
そんな風景が嫌であった。
”なんで上司になんで堂々といわぬのだ。”
 そう本気で思っていた。

でも、実は、いいたいわけでもないのだ。

「まぁ、部長もさぁ、上から無理難題を押し付けられていると思うよ 、、、
だけど、あれはないよな たしかに、、、」

そういった声が聞こえたかと思えば、
キャリアウーマンの嬌声が聞こえたりもする。

「あの上司、 あたしが苦労して相手してるクライアント何だと思ってんだろう。
ほんっと 風見鶏でいい加減で、もぉやってらんない。。。」

ポリフォニーの洪水の中で、
おぼつかない手つきで酒をつぐ。

主体を持ちながらも、流れに身を任せる。
そんなノマド的なバランスがサラリーマンにとっては肝要なのかもしれない。

新橋のたくさんの暖簾やネオン中で、
どの店に入るのかを選ぶのは、ちょっとした勝負であったりする。
勝負ゆえに負けるときもあり、
入った瞬間、”しまったぁ”
と思うこともある。

なにを決め手に暖簾に手をかけるかは、
そのときの気分によるとしかいいようがないのだが、
先客の様子で決めることもしばしばである。
ガラガラの店には入りズラい。
かといって、混雑している店も躊躇してしまったりする。

理論一辺倒ではいけない。
不合理も人間の持ち合わせたものである。
ままよ!
と刺激を求めて飛び込む店もある。


初めての店でカウンターというのも
気が引ける。
奥のテーブルが空いていればそこに座る。

実は、この辺りですでに勝負はついているのかもしれない。
とにかく入ったからには何かを頼む。

さて、なにを頼むか。

寿司を頼むときには、自分なりにコース料理に見立てて頼むと どこかで書いた。
白身からいって、前菜に見立て、
好物の光り物でアクセントをつけながら、
最後は穴子で〆るといった心づもりでいる。

心ではきまっていながら、
次になにを食べようか逡巡している時間も楽しみたいという
二つの欲望の抑揚を感じるのがよかったりもする。

さて、お通しがでてきた。
まずは、ビールというのが定番だが、
やはり料理に合わせたい。

池波正太郎の蕎麦屋での過ごし方も参考にしたりもする。

居酒屋では、すぐに来そうなツマミ
(冷やしトマトだの 枝豆だの)
と、
揚げ物などの時間がかかりそうな一品を一緒に頼む。

揚げ物がすぐに出てくるような店は
興ざめだったりするのだが、
ともかくも、期待しながら時間差が生じる肴を頼み、
後発のメインディッシュをチビチビやりながら待つのである。

好物や、肉・魚のみを頼むことはあえてしない。
抑揚を楽しむのがよいのである。

ーーひと欠片の不幸せとひと欠片の幸せと 本当はふたつを欲しがる♫ーー
いきものがかり(明日へ向かう帰り道)


人間関係で悩む人がいたら、居酒屋にいってお銚子を傾ければよい。

「でもいいよ お前はなんてったて部長がお気に入りだからさ」
なんて声をききながら。

自分の会社に100点をつけられる人は、そういない。

それどころか
みかけと実情のギャップにヘキヘキする人もいる。

「うちは実は、やばいんじゃないか?」
という言葉は、しばしば耳にする。
矛盾を解決するヒーローに居酒屋ではなる。
本当に解決するわけでもないかもしれないが、
糸口にはなるのかもしれぬ。
居酒屋が会社を救うとまではいわぬが、本音を語る場はやはり捨てがたい。

最近は、ウチノミが多いというが、
なるべく憂さは居酒屋ではらして家路に帰るのがいいのではないだろうか。

オンオフをうまくサーフィンするのも 楽しいことである。


居酒屋も、入った店が100点というわけではない。
店選びは、楽しくもあるし、疲れているときには苦痛である。
気づいたら、いつもの店のカウンターに止まり木ということもしばしばあるものだ。

店選びに失敗していながらも、酒で胃が刺激されると、
若いときなら ラーメンで〆ることもあった。
が、この年になると少々きつい。
でもなにか、ちょい足し的に腹にたまるものを。
そんな胃袋の状態(気分)のときに、
新橋にはいい店があるのをご存知だろうか。

そば處 かめや

という店が それである。

烏森口を出て、新橋西口商店街にはいり、3ー4軒歩くと左手にある。


立ち食いそば屋さんなのだが、
ほかとは一味違うソバが味わえる。

トッピングのかき揚げも旨い。
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もちろん、値段からして飛び切り上等とはいかないが、
また食べたくなる。そんな味なのである。

サラリーマン賛歌に立ち食いソバはひと華。

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かくいう私も
ときどき ほかの立ち食い店に入ったりするのだが、
どうしてもこの店と比べてしまい、
ついには、足が遠のくようになってしまった。
つまりは、”かめや”のせいでほかの立ち食いソバは
食べなくなってしまったのである。

居酒屋のざわめきの中から出て、
その余韻を おとなしく噛み締めながら
ソバに舌鼓を打つ。

そんな風に新橋の夜を感じて過ごすのも一興である。

ーー細く狭いこの道のゆくさきには 変わらない温もりが僕を待ってる♫ーー
いきものがかり(同上)

参考:そば処 かめや 新橋店

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新橋四丁目酒場 わっつり

-vol.4- ■□荒び(すさび)の放電□■

ーー2012年10月26日来訪ーー

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Yさんは営業職。

ある日、出値(だしね)を間違えてお客に提示してしまった。

利益が薄い最終手段のもの。

「こんなもんで、いけるんでっか。 ほな、やってもらいますわ」

お客の言葉で、ミスに気付いた。

一度出した金額は引っ込みがつかない。

しどろもどろになりながら 製品のよさをアピールしたが

お客から値段をあげてくれるわけはない。 まさに痛恨のミス。

あのとき、チェックしていれば、、、

部長に報告すると、怒るでもなく

「ウチの商品は丹精込めて作っている

それをなるべく高く買ってくれるお客さまに 紹介し続けるのが営業の役目」

淡々とした言葉。返す言葉もない。

Yさんは、売り出す前に、工場を見学してまわっていた。

ひとつひとつ、いとおしむように製品をチェックする 東北出身のおばさん達の苦労も見ていた。

身の保身のなぐさめの思いはどこかに飛んだ。

キリキリとした胃の痛みを伴う、申し訳ない思い。

その夜、Yさんは居酒屋に足がむいた。

明日からの仕事の段取りを整理すると 夜遅くなったからだ。

昼間の失敗を忘れようと杯が進む。

東北訛りの男性から話かけられる。

「ずいぶん酒強いだね。 あすたもあるだから。

とっくらがらねぇようにきぃつけでな。」

とっくらがる とは、ひっくり返るという意味らしい。

Yさんは、なんだか温かい気持ちになった。

家も近づくと、酔いが過ぎたのか、目から涙が出てきた。

東北の人の言葉は、どこか温かい。

なぜか思いやりを感じる。 厳しい冬を乗り越える共同体がつくる人への優しさなのか。

日本人は山に畏怖を感じるという 同時に、憧れも感じる。

歳神のおとずれ(音連れ)を感じる依代 という装置を使い、里は山のパワーを充電する。

それが正月の数々の行事に生きる。

かつて、どんな権力にも東北の人たちは屈しなかった。

山の神が、母なる海が、彼らとともにあるからなのだろうか。

普段日常はおとなしく、清貧に生活を送り、

時として、荒ぶる魂を放電する行事を行う、

そんなアニュアリーなライフパターン。

それは、日本が古来もっていたというだけでない。

さまざまな種族が行うポトラッチ(蕩尽)は、

文明を拒否すると レヴィ=ストロース(悲しき北回帰線)はいう。

右肩上がりの拡大を追究し、放電する余地を持たない資本主義は、

金のための金を求めて、パワーは膨れ上がる。

富の集中は公共の福祉に分配すべく官僚装置が必要だが、

高邁な精神なくば陳腐化し、官僚装置そのものが増大してしまう。 (マックス=ウェーバー)

そんな調整も必要ない 調整は人にはできない

山神海神への畏怖がそれを果たす。

それをたおやかに心で体現する 東北はまさに日本の宝だ。

まじめで実直なYさんが出会った 経済社会と、人間の魂との交差点。

里人が山人などの稀人(マレビト)に出会うときは変化の訪れである。

普段なにかを我慢していても、

ときには思いっきり羽目を外したときもある。

八戸の方言で、”思いっきり”を “わっつり”というらしい。

新橋四丁目に わっつり という居酒屋がある。

魚串の店である。 肉ではなく魚貝が串ででてくる。

これならいろんな種類が味わえる。

店内はさほど広くなく、華美な装飾もない。

その代わり食材はさまざまな種類が並ぶ。

思わず、いきなり日本酒でいきたくなった。 大吟醸の地酒をもらう。

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あては、〆サバに、カワハギだ。

ねっとりした味わいのサバ、

生き締めゆえの旨みが薫るカワハギ。

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ホヤを頼んだ この味がたまらない。

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くせになってしまう。 酒も進む。

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一気に酒が進んだのは、 お通しにあら煮が出てきたからか。

お通しにしては量が多い。 少食な人なら結構満腹になってしまうだろう。

甘辛く煮つけた煮物をほおばり、日本酒をお代わりした。

助走が長くなってしまったが お目当ての串に移る

 

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ハラス(鮭)、つぶ貝、ししゃも(メス)

なるほど、何本でも食べられそうだ。

おすすめを尋ねると、ブリ大根を是非という。

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店員のお兄さんは、とても人当りがよく親切。 おすすめにのって頼んだ。

大振りなブリ。 実に脂がのっていて、 それを甘辛い煮汁がつつむ。

その煮汁とブリの旨みで煮ふくめられた大根。

ホクホクと食べる。 これが胃にズシーンときて、食欲にフィナーレを飾った。

とても満足した。 うまさだけでない。心までも充足感がある。 この店が持つ温かさのパワーなのか。

まさに わっつり 食べたという気がした。

交感神経と副交感神経の二元論。

平穏とした心と、刺激のある興奮とを、人は求める。

同時にではない。それが交互に来る。その波をたどる。

サラリーマン戦士のひとり Yさんも、 ひとときの平穏のあと、明日にはまた戦場に出ていく。

自由経済には、調整する機構が必要なように、 スサビ、荒ぶる魂には、鎮魂が必要だ。

その鎮魂の装置として 居酒屋は立派にその役目を果たしている。

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今夜もサラリーマンの聖地新橋の 聖地巡礼にいこうと思う。

 

参考:新橋四丁目酒場 わっつり

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鳥藤

-vol.3- ■□三匹の子豚より□■

ーー2012年7月6日来訪ーー

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銀座の華やぐネオンを背に煉瓦のアーチをくぐると 新橋に出る。

そこで楽しい洗礼の煙を浴びる。
炭火で焼かれた肉から余計な脂がした落ち、じゅわっと 吹き上がる。
肉に香りをまとわせたあと、店内に充満し、路地裏にあふれ出す。

ガタガタするような急ごしらえのテーブルが店からせり出し、
煙に負けじとワイワイと嬌声があがっている。

新橋にはサラリーマンが、
そして、サラリーマンには焼き鳥が
よく似合う。

上着は脱ぎ、ネクタイもはずして、
ワイシャツの上のボタンもはずす。
左手にジョッキ、右手には、串をもって 話に興じる。箸など不要である。

鳥はもともと高級食材で、焼き鳥が庶民の口にはいるのは、
昭和30年のブロイラーの登場を待たねばならない。
代用として、牛豚の内臓があった。
代用が主役となるのは、よくあることで、
それもバリエーションに加えながら、焼き鳥屋のメニューが成り立つ。

豚を使う故、焼きとん と謳う店もある。
東松山は、焼きトンで、一代歓楽街を作った。

地鶏が流行るなか、さらに安い食材を求める店と客との二人三脚というわけだ。
純正な焼き鳥やということでは四国の今治市で一番食べられているらしい。

特定の部位だけ串で繋げて焼くのは、
考えてみれば、食べ方として贅沢な話である。
調理法としても、ひっくり返すのも、
少しずつ回したりするのに串はじつに便利で、
満遍なく火を通すことができる。

調理法がすぐれているからこそ
トルコにはシシカバブ、インドネシアにはサテ、中国には羊肉串と
串を使う料理は世界中に存在する。

日本でも、焼き鳥だけでなく、
鰻だって串を打たれ、鮎の塩焼きだって囲炉裏の傍で刺さる。

串で食べるというのも、また一興で、ちょっぴり野性味もあり、
口の端にも力が漲るようだ。話にも華が咲く。

サラリーマンが身を寄せ、席を譲り合いながら興じている、
その背景の煉瓦造り。

煉瓦造りは、似非欧米化を急ぐ明治政府が、
大火の相次ぐ東亰に施した不燃化対策であった。
しかし、無計画で拙速だったため、津田真道から痛烈に批判され、
粗雑な煉瓦を用いたため、永井荷風から風情がないとバカにされた。
そんな政府の拙速とうらはらに、庶民は素晴らしい行動をみせる。

ドイツ人医師のベルツは、焼け跡からたくましく、
素早く復興していく様に驚き、勝海舟の三男の嫁のクララも、
家を失った人々が、それを茶化して楽しげに助け合う姿を日記に記した。

元来、その逞しさは、
家屋さえもリサイクルという身軽な江戸の庶民の気質が成せる技だが、
会社という大文字の他者に対するサラリーマンの共同戦線となって
現代にも通じているのかもしれぬ。

新橋のテーマフード 焼き鳥。

そのメッカで洗練された焼き鳥を提供してくれる店を紹介する。

鳥藤だ。
センベロの聖地 “大露路”に近いこの店では、
タレか塩かなど無粋なる選択をする必要はない。

一番美味しい食べ方はお店が決める
うまい寿司屋と同様である。

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手前はつくね これも塩である。
旨味が凝縮され、口の中が美味しさの洪水となった。
柚子コショウが粋な香りを漂わせる後味。

奥はボンじり。これも塩である。
ボンじりのボンとは”ぼんぼり”が由来らしいが、
この店では、脂部分だけでなく肉部分も一緒になるようにカットしてある。
脂の、ぷにゅぷにゅとした食感と
肉の部分とのコントラストがその旨味を増大させる。

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手間はネギマ、奥は皮だ。
皮はパリッと香ばしい。そしてややからめの塩で ひきたつ。
ネギマは王道を感じさせる堂々たる味。
噛むほどにジューシーで 焼き鳥だ~という感じだが、
この店の格の違いも感じさせられた。
野菜だってまけていない

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むせかえるほどの香りとともに
芳醇な旨味が広がる 椎茸 これも塩だ。
シシトウも美味である。

振り返ってみれば、
タレで出されるのは、鳥レバだけである

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レバーの新鮮さがひしひしと伝わってくる。
タレは、その新鮮さを伝えるためだけに 塗られているかのようだ。

いい忘れたが、お通しは大根おろしにうずらを割りいれたもの。

焼き鳥につけてもよし、そのまま箸休めとしてもよい。
それだけが お客に許された自由である。

うまい焼き鳥をたべたくなったら、ここにくればよいと思うと、
ヤキトリジャングルの中で、目印を見つけたようで、うれしい心地がするのだ。

童話 3匹の子ブタでは、煉瓦造りの家をつくったブタが、
時間はかかるが揺るぎないものを築く。

こうした店は、新橋という土台が、
ゆっくりと年月をかけて築き上げてきたのだろう。
煉瓦を使ったくせに、見せかけだけ急ごしらえな政府とは対照的に、
庶民の心意気が感じられ、なんとも愉快である。

参考:鳥藤

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浜んこら

-vol.2- ■□継投と鶴□■

ーー2012年10月20日来訪ーー

 

新橋に求めるもののひとつには
昭和の香りがあるのではないだろうか。

季節は、野球がそろそろシーズンオフを迎える頃だ。
日本シリーズまでの段取りがずいぶんと複雑になった。
巨人一色でない多様化も世相の現れか。

中学生の時分は、
前の日のナイターをみていないと
話題についていけなかった。
一億総解説者 なんて呼び名ができた時代だ。

夢中で見るので、
1試合1試合にそれなりのドラマがあった。
だから、話題になる。
友人が見るから自分も観る。

あの一球すごかったな
とか
あの継投はひどい
とか
あのスクイズ失敗で勝負がみえた
などなど 。。。

家に帰るなり、学生服を放り出し
ナイターに魅入った。

夕暮れどき
路地裏には、夕餉のしたくの匂いが立ちのぼっていた。

昭和の路地裏の秋の夕暮れ。

そして今夜、新橋の路地裏にたち、
赤ちょうちんを探す。

有名なセンベロの店、大露路のほど近くの2階に 「浜んこら」はある。


入口をガラガラとあけると、
女将さんが出迎えてくれた。
まだ宵闇の薄い紫から、
つるべ落としの直後。
雨の降っているせいもあるのか、
他に客もない。
せっかくなので、”こあがり”に腰を落ち着けることにした。

小上がりとは、襖などで仕切られてはいないが、靴を抜いで座る席である。
人にもよるが、居酒屋では特等席である。

なんだか、おばあちゃんのウチにいったような気分だ。

これも、昭和の風情であろう。

連れも昭和を思い出したらしく、
千代の富士の話題もあがった。

「最初は何にしましょうか
おビールでも、召し上がりますか。」

女将さんが勧めてくれるままに
生を注文した。

ツブ貝の煮物がお通しだ。
飾らない美味しさとでもいおうか。
どうだ旨いだろう、というトゲがない。
なんとも懐かしいような優しい味わいだ。
冷めているのに温かさすら感じる。

 

居酒屋らしいメニュー、
マグロぶつと
旬の銀杏を頼んだ。

マグロぶつ

ツマは、その場で大根を切っていた。
ちょっとしたことかもしれぬが、
この辺りがチェーンではむつかしい。

包丁の音がしましたからというと、
嬉しそうな笑顔で、時間が経つと味が落ちますからという。

少し大きめなぶつ切りは、
マグロの赤身を存分に味わえる。

 

銀杏を煎る音が、なんとも秋の風情
旬のものらしい、鮮烈な香りと上品な味わいが 心地よい。

 

サバの塩焼き
鯖は干してあるのを焼いたもの。
なんとも家庭的だが、
鯖の脂のほかに熟成されたよい香りがする。

 

家庭的ついでに、

アジフライ。
揚げたてのホクホクを頬張る。

 

懐かしさに胃が学生時代に戻ったのか
名物の長崎ちゃんぽんを追加。

実は最初の予定では、浜んこらの2号店にいこうとしていた。

ところが、センチメンタルが足をこちらに向けたのだ。

女将さんの話では、
2号店を開いたのは、この場所をやっていた先代。

2号店は、大きく小綺麗になったというが、あえて、
こちらに来る常連さんもいるという。

居酒屋は箱も大事な要素ということか。

窓を開けると、
心地よい風 なのだが、
隣のビルの壁が見えるのみ。

景観よくないという人もいるかもしれないが、
これはこれで、落ち着く風情だ。

この来訪の日のちょうど一ヶ月前

9月19日に
日航は再上場を果たした。
株価は3810円。
アジアの国際関係の状況の煽りで少し下げ、
今日は3805円の終値。
2兆円もの負債を抱えた企業の復活劇だが、個人的には、鶴のマークの復活がなんとも嬉しかった。

オヤジのノスタルジーにすぎないかもしれぬ。

AIKOの”飛行機”という歌がある。
去っていく彼への未練を、空港で飛び立つ機体を見上げる切なさでつづる
歌詞の情緒は鶴のマークがないと味わえない。

鶴といえば、
福禄寿を思い出す。
寿老人と同神異体といわれるが異説もある。
北宋のころ 
いくら飲んでも酔わない貌体古怪な人物がいて、
これが南極星の化身とされた。
長頭短身、杖に経典、
鶴をしたがえているこの人物こそ 
泰山府君という。
実は閻魔天(えんまさま)の眷属である。
なので、福というか商売っ気はないはずであるが、
当時の画家たちが脚色したのだろうと陳瞬臣は書いている。
関帝といっしょで、商売をくっつけてしまうのは中国らしい。

酒店の壁に仙人がみかんの皮で黄色い鶴を描いたところ、
その鶴が客の歌に合わせて踊りだす。
店は大繁盛。
まさに千客万来、
ある日 
その仙人が店にやってきて、
その鶴にまたがって帰って行ったとのこと。
それが数々の漢詩に残る黄鶴楼の逸話である。

浜んこらの2代めの女将さんは、
まだこの場所を継いで わずか2年だという。

路地裏社会のいろんな事情もあるが、
鶴をしたがえるごとく、
盛り立てていくことだろう。

ともかくも、今夜はこちらの店にして
正解であった。

南極老人星はカノープス。
黄白に光る輝く星で、
シリウスの次に明るい星である。

そういえば今年(2012年)の秋には

ハッブル望遠鏡が10年かけてとらえた画像が発表された。
撮影されたのは、南天「ろ座」の一角。満月よりも小さい領域に、
5500の銀河が写っているという。

もしかしたら 鶴にのって帰って行った仙人も
カメラに収まる日がくるのかもしれない。

参考:浜んこら

 

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せかいち

-vol.1- ■□サラリーマンの立ち位置□■

ーー2012年7月来訪ーー

「あとは、上がどう考えるかだよ」
上司らしき男が、半ば身を反らして、話相手を睨むような仕草になった。

ここは、”せかいち” 。
レンガ通りにある居酒屋である。
しなやかな振る舞いの中に華やいだ女店員が笑顔に迎えられ、店内に入った。

とりあえず、生ビールを頼んでメニューを眺めるなり、
斜め向かいに陣取ったサラリーマンらしき 声がきこえてきたのだ。

メニューにはもつ鍋が堂々と書かれている。
先ほどの声とは別のサラリーマンの同僚らしき二人でいる隣のテーブルには、 カセットコンロがでていた。
そのテーブルはお勘定どきらしく、鍋のサービスとおぼしきスープをすすっている。
「会社は助けてくれない。。。」
宴のあとのような、サビしげな表情で、つぶやくような語り口だ。

また、斜め向かいから、声が聞こえる。

「たしかに、ウチあたりのちっぽけな会社がとれる案件じゃないだろ?」

向かいに座る部下の表情はここからは伺うことができない。

いつのまにか、お通しがでてきた。
もやしのナムルだ。
あっさりとしているが、後を引く味わいだ。




「あーあ、明日は会社に行きたくないな」
隣の二人が立ち上がった。
すすっと、会計場所に女店員が移動した。

会計が済むのを見計らって、とりあえず、センマイ刺しをたのむ。
本当は、レバ刺しといきたいところだが、許されぬ。
食べられないというと途端に食べたくなったりする。

「でもな、うちのサイズには合わないっていう部長の盲目的な判断が気にくわないんだよな。
そんなんじゃ大きくならんよ!会社っていうのは」
ますます反り返ったような姿勢の中年男の声は大きくなった。
隣の二人が帰ったので尚更だ。

モツがオススメなのは、新橋ではこの店に限ってのことではない。
いったい一日にどの位の臓物がこの街で消費されているんだろう、、、
そんな疑問がふと頭に浮かんで、
オススメという印がついた酢モツを追加した。

「そもそも、部長が大きなやつをとってこいっていうからとってきたら、
今度は大丈夫かって質問攻めだよ」
男がビールをおかわりした。
笑顔で女店員が承ったので、
「こっちも追加を」とホッピーをたのんだ。
ヒラヒラと軽やかに動く。

主体性が大事だという。でもそれを強調しすぎると、皆が社長だ。
それはそれでよいかもしれないが、ちょっと首を傾げてしまう。

毎日毎日、きったはったの勝負に身を投じて生きるのが好きだという性分の人は、
経営者になれば良いと思う。
でもそういった人は、一握りだろうと思ってしまう。
リスクを伴わない利益は詐欺だ。

サラリーマンは組織で勝負する。
組織でうごくためには、それ相応のプロトコルに従うのが肝心だ。
そうした中で、なぁなぁにできないことも多い。
先ほどのモツの量も、ばく然とした疑問を楽しんでいるにすぎないのだが、
会社だったら、フェルミ推定ぐらいしろと、おこられてしまうことだろう。

酢モツがでてきた。



スッと胃に活力が与えられるような感じだ。食べやすさの中にも旨味が感じられる。
これも後を引く味わいだ。

「そういえば、あの経理のコ、結婚するんだって?おまえ狙ってたじゃないか」
ある程度、くだを巻き終えたらしく、異性の話題に移った。
ここからは、ドンドンと下世話になるのが通例だ。


給料をもらっている立場なら、責任は上がとる。
自分の持ち場以外の主体性は不要だが、
その代わり強い主体性があるように、見せかけねばならない。
しかし、そのダブルスタンダードは矛盾だらけで、
どこかで 見せかけのハズだった主体性が自負に変わるときもある。
そんなサラリーマンの機微も、人間らしいでのではないか、、、
つい、そう思ってしまう。

珍しいメニューが目に入った。
牛スジ入りの卵焼きをたのんで 〆た。


飲んだ胃に、ふとやさしい 満腹感を与えてくれるそんな一品だ。


「せかいち」は24時間営業の店である。

新橋で終電を逃したらどうするのか。
酒量に余裕があるなら、「せかいち」がベストである。

もしその日が金曜日で喫煙者なら、
烏森口の西口商店街の入り口まで戻りカフェトバコに
入るとよいだろう。

おなかがすいているなら、中華料理屋も遅くまでやっている。
蘭苑はおすすめのお店である。

新橋は、朝まで楽しい街であるのだが、
翌朝の重荷がうらはらにあるのも否めない。
でもそういうのもひっくるめて夜の魅力である。
どこか後ろめたい気持ちも情緒のひとつだと思う。

参考 食べログ せかいち本店

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